このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

神国思想と近代天皇制

 

 かつて大日本帝国憲法は、天皇は「万世一系」であり、「神聖」で「不可侵」の存在であることを主張した。第二次大戦後この考え方は否定され、現行日本国憲法では天皇は「象徴」であり、主権在民が高らかに謳われている。しかし、1989年の昭和天皇崩御のときに多くの国民が悲しんだりするなど、日本国民の間には、天皇に対して有り難い、という感情が根強く見られる。第二次大戦後、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトはその著『菊と刀』のなかで、「日本人の心のなかに深く入りこんでいる天皇制を廃止すべきでない」と主張した。アメリカが天皇制を廃止しなかったのは、ベネディクトの主張によったものといわれている。しかし実際のところ、このような天皇に対して有り難いという感情は、昔から日本人の心に深く入りこんでいたのだろうか。

 昨年、森前首相が「日本は天皇を中心とした神の国である」と発言して問題となったのは記憶に新しいが、この考え方は古代にはあまり表面化せず、日本は天照大神の神孫である天皇を中心とした神の国ととらえる考え方が歴史に登場してくるのは、中世のことであった。これは当時、蒙古来襲という国家危機が民族意識を覚醒させたこと、武家と公家との政治権力の交代期であり、天皇を中心とする古代貴族体制を保持するイデオロギーとして神国思想が強調されたことによる。北畠親房『神皇正統記』に見られる考え方はその代表的な例である。この考え方は、近世に入ると、儒教思想と結合して水戸学などの国粋主義思想を生み出したり、幕末維新期の尊王攘夷運動に精神的基盤を提供したりした。明治以後も、神国思想は国家を支える道徳思想として生き続け、昭和のファシズム体制下ではさらに強調され、「大東亜共栄圏」建設への国民の精神的統合の中核として大きな役割を果たした。

 しかし、神国思想が、明治維新以前に国民全体に浸透していたかどうかについては、疑問が残る。近世、とくに江戸幕府以降、天皇や朝廷の権威は形骸化しており、近世の民衆が朝廷を知る機会というのは、天皇家の家族の誕生・死去や即位のときなどの民間への生活規制が行なわれたとき、年号の改定が行なわれたときなどであった。多くの国民にとっては、専制的な権力を行使する存在は将軍であり、近世以降、天皇家は形の上で権力を持っていても、実際には武家のために置かれているだけの存在であった。幕末になると、幕藩体制の弱体化とともに、朝廷への待望感がにわかに広まっていくが、それでも一般国民の朝廷に対する感情はそれほど有り難い、というものではなく、朝廷の男女の生活を題材にする川柳、狂歌、好色小説、枕絵なども武家や民衆のなかで知られていた。また、明治維新後の1869年には、新政府が東北地方の農民に向けて、天皇について詳しく紹介しており(「奥州人民告諭」)、これは当時の東北地方の農民が天皇についてほとんど知らなかったことを示している。

 このように見てみると、神国思想や天皇家は有り難いという考え方は明治維新以前にはあまり見られなかったということがわかる。つまり、現在の日本国民に見られるような天皇家への感情は、日本人が古くから持ってきた伝統的な考え方ではなく、主として明治以後に形成されたものなのである。したがって、これを論拠にして天皇制を存続させようとするのはおかしいといえる。

 近代以後、日本は西欧列強の外圧に対抗するために、日本独自の主体性を生み出そうとして、神国思想を強調するようになった。明治維新以後、四民平等が謳われたが、その平等は「一君万民」の平等つまり天皇から認められた者の平等であり、天皇の国民つまり「臣民」「皇民」という資格を持った者だけの平等であった。このため、そういった資格を持たない人間は差別されることとなった。その意味で、近代の神国思想は一種の「選民思想」であり、アイヌ民族や沖縄の人たち、朝鮮人などに対し露骨に「皇民化」を強要することとなっていったのは、その後の歴史が物語っている。

 現在、天皇制について論議することはいまだにタブーのまま残されている。しかし今、日の丸・君が代問題、教科書問題、小泉首相の靖国神社公式参拝問題などに見られるように、日本の右傾化がかなり進んでおり、再び侵略戦争の過ちを繰り返すのではないかと周辺諸国から懸念の声が聞かれている。このような情勢のもとで、今こそ、天皇制の存廃も含め、天皇制に関してタブーをなくして国民的な議論を行なうことが必要ではないだろうか。

 (2001年7月)

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