このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

新教育運動と軍国主義

  

  はじめに

 大正時代に入ると、大正デモクラシーの風潮の中で、デューイなどの新しい児童観・教育方法観にもとづいて学校改革のこころみが行なわれた。このこころみを新教育運動という。ここでは、こうした大正期の新教育運動が、その後の軍国主義化への道程のなかでどのように変容していったかについて見てみたい。

  わが国における新教育運動の実践

 わが国でも、新教育理論にもとづいて、各地の師範学校附属小学校や私立小学校でさまざまな教育改革の実践が行なわれた。その主なものは明石女子師範付小における及川平治の分団式教授、千葉師範付小における手塚岸衛の自由教育、奈良女高師付小における木下竹次の合科教授などがあげられ、いずれも児童や生徒の自発性、個性を尊重した自由主義的な教育を行なった。このような新教育運動の実践は師範学校付属小学校や私立学校に限定されてはいたが、それらの学校は公立小学校の教師たちをひきつけ、全国的に影響を与えた。

 このような大正期における新教育運動は、実際には、その教育内容は、教育現場を規制するさまざまな法律や国定教科書などによって制約され、教育目的も政府の許容する枠からはみ出ることは困難であったが、学校教育以外にもさまざまな分野に影響を与えている。たとえば、鈴木三重吉が創刊した『赤い鳥』は、明らかに児童中心主義的教育論に立脚するものであり、子どもたちにすぐれた作品を提供しただけでなく、子どもたちの投稿を奨励し、創作意欲を促して新しい児童文芸運動をおこすきっかけともなった。また、美術教育の分野でも自由画教育運動が提唱され、大きな反響を呼んだ。

  軍国主義と新教育運動

 しかし、このような大正期の新教育運動は長くは続かなかった。1925年には治安維持法が制定され、しだいに自由主義的な潮流が弾圧されるようになった。昭和に入ると、日本は国際関係における緊張と国内における諸矛盾の激化を、軍国主義・ファシズム体制を志向することによって解決の道を求めるようになっていった。1931年には満州事変を、1937年には日中戦争を引き起こし、1945年の終戦まで軍国主義体制は続いた。大正期の新教育運動もしだいに弾圧されはじめ、大正期に新教育運動の旗手として活躍した多くのリーダーたちは軍国主義教育の忠実な担い手となっていった。このような状況の中でも、軍国主義教育に抵抗して、児童中心主義を実践しようとする試みもいくつか行なわれ、たとえば「児童の村」運動などが上げられる。また、プロレタリア教育運動も行なわれ、たとえば『新興教育』(19321,2月合併号)では、東京都下の小学生の満州事変についての座談会記事を紹介し、いかに排外主義戦争熱や祖国愛が教え込まれているか、について批判している。

 しかし、このような動きも、1928年の治安維持法改悪などによる弾圧が強化されるにつれて衰退を余儀なくされるようになっていった。さらに、日本の帝国主義戦争が泥沼化していくにつれ、軍国主義教育もさらに進められていく。日本政府は大東亜共栄圏の実現を旗印に、全国民に常在戦場の精神を要求し、勤労を強要するようになり、自由主義・個人主義のひとかけらも許されなくなり、思想・言論の自由に対する厳しい弾圧が行なわれた。また、1941年に小学校も国民学校に再編され、これまでの小学校教育から皇国民育成が重視されるようになった。国民学校での教科や活動のすべてにわたり、「教育勅語」にもとづいて「皇国ノ道ヲ修練」する使命を背負わされ、「万邦無比の神国観念」を身に付け日常の生活を律することが強要されていった。また、中等・高等教育機関における教育でも国家至上主義の方針が貫徹され、生徒の自由な思考や活動は圧殺された。1943年には人文科学系・社会科学系の学生に対し、徴兵猶予の措置が停止され、多数の学生が学業半ばで兵役に服し戦場に送り込まれていった。1945522には勅令「戦時教育令」により国民学校初等科を除き学校における授業はすべて停止され、中等・高等教育機関は事実上壊滅し、ついに国民全体が侵略戦争に加担させられていき、このような状況のなかで終戦を迎えることとなったのである。

  おわりに

 以上のように、多くの方面に多大な影響を残した大正期の新教育運動も、日本が軍国主義に傾斜していくなかで、しだいに弾圧され、その担い手の多くは軍国主義教育の走狗となっていった。その理由として弾圧の強化が挙げられるだろうが、大正デモクラシー期の、比較的言論や思想の自由に対する規制が緩やかだった時代に、軍国主義への傾斜を拒否する思潮はあまり見られなかったのであろうか。このような時期に軍国主義を強く戒めるような教育が行なわれていたならば、その後の日本は違った道を辿ったであろう。すでに1931年ごろには軍国主義・政治教育が小学生に教え込まれており、それに抗うすべはもはやなかったのであろうが、大正デモクラシー期においては可能であったとするならば、のちに日本がおこした戦争犯罪に対する責任の一端は、国民と教育者にもあったといわざるを得ない。人がまだ幼いころに教え込まれた考えは時を経てもなかなか変えることはできない。たとえば物議をかもした森前首相の「神の国」発言も、彼が小学時代に教え込まれた教育がまだ彼の脳裏に焼きついていることによるであろう。児童に対する教育に、自由な教育が求められるのは、このことによる。現在の日本では小泉首相の靖国参拝問題や歴史教科書問題などで右傾化が進んでいる。とくに歴史教科書問題は、国粋的な誤った歴史観を植え込む恐れがあることから、たかが教科書とタカをくくるのではなく、とくに厳重な対処が必要であろう。かつて大正期に、軍国主義へ歩みはじめた日本をとめられなかった歴史を重く受け止めて、日本が将来的にふたたび軍国主義の道を歩まないように国民ひとりひとりが努力することが、求められている。


このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください