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  エスノセントリズムと現代社会

 

はじめに 

現代がかつてない国際化、情報化の時代であるといわれてからすでに久しい。いかなる文化に属する人々であれ、異文化との接触にもはや無縁でいることはできない時代となりつつある。ここでは、民族が地球規模で交流し、激突するこの時代に、われわれが異文化と接触する際に陥りやすいエスノセントリズムについて考察してみたい。

 万延元年のエスノセントリズム

1860年、日米修好通商条約批准書交換のために、史上初めて村垣淡路守範正を代表とする77名の侍が史上初めて渡米した(万延元年遣米使節)。このとき村垣淡路守が残した訪米中の日記は、もっぱら江戸時代の日本の習慣を判断基準としてアメリカ社会を論じるとどうなるか、ということを明らかにしている。

まず大統領に正式書類を渡すためにホワイトハウスを訪問したが、そのときのことについては、「大統領であるのに商人同様の筒袖股引き(1)でなんの飾りもつけず、刀もさしておらず、これでは上下の別もなく、礼儀も知らない野蛮人である」と大いに憤慨している。また、そのあと国会を見学したときのことについては、「重大な国政の会議だというのに、股引き筒袖で、一人が立って大声で罵っているさまは、まるで狂人のようである。一人が終わるとまた一人がたって同様のことをする」とつくづく呆れ果てながら書いている(2)

淡路守は専ら当時の日本の習慣を判断基準としてアメリカを論じているので、きわめて独断的な見方になっている。このような独断的な見方はエスノセントリズムと呼ばれている。

  エスノセントリズムとは

 エスノセントリズム(ethnocentrism)とは、「民族」を意味するギリシャ語エトノス(ethnos)からつくられたものであり、「自民族中心主義」「自文化中心主義」と訳されている。つまり「自分たちの基準で、他の文化をすべて判断する見方」である。いわゆる未開民族が自ら名乗る種族名がしばしば「人間」を意味する語であることはよく知られている(3)。また、古代のギリシャ・ローマ人は仲間以外のすべてを「野蛮人」と呼んだ。いわゆる「中華思想」は、エスノセントリズムの典型的な例といえる。このように自民族を神聖視したり、自文化を絶対視したりする傾向は大なり小なりどの民族にもみられるものである。

 エスノセントリズムという概念をはじめて用いたアメリカの社会学者サムナーは、一般に点在する小集団群からなる未開社会では、親族、近隣、同盟などの関係で結びついている「われわれ」という感情でカテゴライズされる集団(内集団)と、それ以外の「他者の集団」(外集団)の分化が明瞭であり、内集団の内部は互いに平和・秩序・法の関係にあり、他者との関係は、相互の協約がそれを和らげない限り戦争や略奪の関係にある、と述べている(4)。このような、連帯と協力の自集団内関係に対して敵対と葛藤の対外集団関係という図式は、戦争の際における愛国心の高揚と敵国への憎悪や、自民族の神聖視と多民族の蔑視、排斥というエスノセントリズムと密接不可分の概念となっている。

 文化人類学におけるエスノセントリズムと文化相対主義の功罪

 文化人類学という学問分野が誕生した当初は、多くの学者が国外に出ることなく、文献研究を主体としており、エスノセントリックな見方による研究も多かったが、そのような人類学を大きく転換させたのがフィールドワークであった。ことにマリノフスキーがトロブリアンド諸島でおこなった参与観察という調査法は、フィールドワークの水準を飛躍的に高めたものであった。このように文化人類学はいわばエスノセントリズムを克服する科学的方法論として発展してきた。その方法論の根幹をなすものが文化相対主義であり、エスノセントリズムと対立する概念である。

文化相対主義は、ルース・ベネディクト(5)によって確立されたとされている。文化相対主義とは、自文化を基準として諸文化を優劣の視角から捉えるエスノセントリックな態度を極力排除し、どの文化もそれぞれ所与の環境への最適の適応方法として歴史的に形成されたものであり、すべての文化がそれなりの価値を内在し、あらゆる社会に共通する単一の価値尺度は存在せず、人間の諸経験のもつ意味の正しい解釈は、それを経験する人々の文化的背景、行動の全体的な準拠枠、他の慣行や社会規範に照らしてしか行えないとする立場である。これに対して石田英一郎は、もし文化があくまで相対的なものだとすれば、人類に普遍の価値基準もなく、およそ異民族同士が相互に理解し共感しうるための共通の基盤も存在しえないことになると批判している(6)。また、文化相対主義が文化人類学の中心的なイデオロギーとなり、誰もが無批判に標榜するスローガンとなるにつれて、本来エスノセントリズムと対立する概念である文化相対主義が自他の区別を絶対化し、差異のなかに閉じこもる一種のエスノセントリズムとなり、他者に対してそれぞれの文化の内部に固定して閉じ込める「文化的アパルトヘイト」に成り下がってしまう危険性も否定できない(7)

  明治維新後の日本におけるエスノセントリズムと劣等感

 明治維新以後、欧米文化が日本に流入するようになると、先にあげた淡路守のようなエスノセントリズムは崩れ去り、今度は欧米文化に対する強い劣等感が支配するようになった。井上馨が提唱した欧化主義はその一例である。また、夏目漱石はイギリス留学中に欧米文化に対する劣等感からノイローゼにかかってしまったことはよく知られている。ここで注目したいのは、明治以後の日本はこのように欧米文化に対しては劣等感を抱く一方で、アジア諸国など非欧米文化に対しては、優越感を抱くようになったという点である。このような構造は明治維新以後から現代にいたるまで、基本的には変わっていない。また、「日本=単一民族国家」という幻想も今日にいたるまで日本人の多くが持っている。したがって、中曽根元首相の失言(8)も特殊な事例というよりもむしろ、多くの日本人が心に抱いている感情を吐露したものとみるべきである。

  エスノセントリズムと国際化

 以上、エスノセントリズムについて批判的に考察してきたが、私はエスノセントリズムを完全に否定するものではない。植民地解放闘争や被抑圧民族の解放運動などのなかに見られるエスノセントリズムやナショナリズムを、これまで述べてきたような日本や欧米などのそれと同列に論じることはできない。むしろ解放闘争におけるエスノセントリズムは時として有用ですらあるのではないかと思われる。しかし、解放という目的を成し遂げたあとのエスノセントリズムやナショナリズムはもはや有害なものでしかない。ましてや軍事的、政治的緊張のもとで奨励されるそれは国際平和とは対極的なものでしかない。国際化が盛んに叫ばれる今日、エスノセントリズムからの精神の解放が求められている。

さて、去る49日の石原慎太郎都知事の「三国人(9)」発言は記憶に新しいが、私は石原の用いた「三国人」という表現よりもむしろ、この発言が批判されるどころか逆に多くの都民に肯定的に受け止めていることに強く警戒したい。石原発言に多くの支持が集まるということは、それだけ都民の外国人に対する反発が強くなってきているということである。たしかにここ数年で日本に来る外国人の数は激増しており、そのなかには凶悪事件を起こす外国人もいることは否定できない。すでにヨーロッパ諸国では、安い賃金で働く外国人労働者に職を奪われることへの反発が、外国人排斥を唱える極右勢力の台頭を招く事態になっているが、日本においてもにわかにそれが現実味を帯びてきている。このような傾向が国際化の時代に相反するのはいうまでもないが、そもそも国際化の進展に伴う異文化同士の対立は不可避的である。この対立を除去するのではなく、むしろ文化の対立を冷静に認識し尊重しあうこと、これこそが国際化の時代に真に必要なことではないだろうか。

  

 

(1)    洋服のこと。

(2)    祖父江1977:6。

(3)    例えば、ナヴァホ族の自称「ディネ」は真の人間の意である。アイヌ、イヌイット、ツングース、ナナイなども人間の意味である。

(4)    サムナー1975:20-24.

(5)    ベネディクトは1934年にその著『文化の型』のなかで、さまざまな文化をアポロ的な文化の型とディオニュソス的な文化の型に分類し、人間の正常・異常ということはそれぞれの社会・文化ごとに決まるものでまったく相対的なものだと主張した[祖父江1976:182183]。日本で有名な『菊と刀』もこの概念を用いてかかれたものである。

(6)    例えば、エチオピア西南部に住む牧畜民ボディ族は、牛をトーテムとしており、大切な牛が死んだ場合には他部族を1人殺しにいく。牛の寿命は短いので、ボディ族の男はかならず他部族を殺さなければならないことになっている[福井1977:39]。文化相対主義の立場からすれば、このような他部族に対する激しい排他性は、長い年月をかけて形成されてきたボディ族の文化なので尊重せねばならないことになる。

(7)    浜本1996:74-77. 

(8)    1986年秋、中曽根康弘首相(当時)は、「アメリカには黒人とかプエルトリコとかメキシカンとか、そういうのが相当おって、平均的にみたら(知識水準が)非常にまだ低い」(『朝日新聞』1986116日付)といい、さらに「(日本には)単一民族という非常にいい、誇るべき長所がある」(19861017日付)と発言、在日朝鮮人やアイヌ民族などから抗議を受けた。

(9)    三国人とは第三国人の略で、韓国・台湾など旧植民地人に対して用いていた言葉である(『朝日新聞』2000410日付)

 

参考文献

石川栄吉ほか編『【縮刷版】文化人類学事典』弘文堂,1994.

サムナー,W.G.(青柳清孝ほか訳)『現代社会学体系第3巻 フォークウェイズ』青木書店,1975.

住原則也「フィールドワークの意味と意義」藤巻正己ほか編『異文化を「知る」ための方法』古今書院,1996.

祖父江孝男「文化と異常行動」『文化人類学のすすめ』講談社学術文庫,1976.

祖父江孝男「外国の民族・文化をどう理解するか」国立民族学博物館監修『季刊民族学』第1巻第2,()民族学振興会千里事務局,1977.

浜本満「差異のとらえかた」青木保ほか編『岩波講座文化人類学第12巻 思想化される周辺世界』岩波書店,1996.  

福井勝義「ボディ族の“色”と“模様”」国立民族学博物館監修『季刊民族学』第1巻第2, ()民族学振興会千里事務局,1977.

ボック,P.K.(江淵一公訳)『現代文化人類学入門(4)』講談社学術文庫,1977.

 

 

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