このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 創造されるアイヌの「伝統文化」

 

はじめに

 アイヌは、北海道、サハリン南部、千島列島に居住してきた。しかし、本州東北地方北部にもアイヌ語起源の地名が数多く残されており、このことからアイヌ語と系統を同じくする言語集団が東北地方にも居住していたと考えられている。彼らはそれぞれの地域で個性豊かな文化を独自に発展させてきたが、近世になって、日本やロシアなど外部からの干渉が強まるにつれて、変容を迫られるようになった。千島アイヌはロシア政府の同化政策や色丹島への強制移住政策などによって生きた伝統を奪われた。樺太アイヌも、樺太・千島交換条約締結に伴う北海道への強制移住などにより、現在はほとんど伝統を奪われている。北海道アイヌも急激な近代化や同化政策などで、独自の生活様式や文化を保持するのが困難な状況になっている。このようななかで、近年になって、アイヌ民族の権利回復を要求する運動が高まりつつあり、そのなかで失われたアイヌの伝統文化を復活させる動きも出てきている。このレポートでは、このようなアイヌの伝統文化復権の動きとその問題点について見てゆきたい。

  アイヌ新法の成立と伝統文化復権の運動

 明治にはいり、蝦夷地が北海道と改称され、本州などから多くの和人が入植するようになると、アイヌの間にしだいに生活に困窮する人たちが増えてきた。そこで政府は1899年に「北海道旧土人保護法」を制定した。この法律はアイヌを日本人に同化させることを目的としたもので、土地を付与して農耕民に転換させるとともに、医療、生活扶助、教育などの保護対策を行なうものであった。しかし、実際には新たに付与される良好な土地は少なく、その土地も多くは開墾できずに没収され、戦後の農地改革で買収されるなどして、必ずしも成果は上がらなかった。

明治以後、アイヌの主食となっていたサケが、和人の乱獲による急激な減少に伴い、資源保護の名目で獲ることを禁止され、また同化政策の進展に伴い、独自の風習やアイヌ語もだんだんと廃れていった。このようななかで、アイヌの伝統的な文化を記録していこうとする試みは、おもに金田一京助やジョン・バチェラーといった和人や外国人の研究者によって進められ、戦前ではアイヌ自身による伝統文化の記録活動は『アイヌ神謡集』を著した知里幸惠とその弟・知里真志保くらいであった。いっぽう、アイヌの権利回復を求める動きは戦前から活発で、1930年に「北海道アイヌ協会」が設立された。この団体は戦後の1960年、アイヌ差別を理由に「北海道ウタリ協会」と改称された。ウタリとは同胞という意味のアイヌ語である。

 戦後になると、アイヌ出身者によるアイヌの伝統文化の復権運動が盛んになった。この背景として、戦後の民主化や高度経済成長があげられるのはいうまでもないが、アイヌ出身の知識人として最大の存在であった知里真志保が1961年に52歳の若さで亡くなったことにより、アイヌ文化の継承に大きな危機感が生じたことも理由としてあげられよう。また、アイヌ語を解する人が年を経るにつれて減り、アイヌの伝統的な文化が遠くない将来に絶滅してしまうであろうという危機感もその根底にあった。

 1986年、当時の中曽根康弘首相は「日本は単一民族国家である」[『朝日新聞』19861017日付]という発言をし、この発言はアイヌ以外にも在日朝鮮人などからも激しい反発を受けた。しかし一方で、中曽根発言がアイヌの人たちの「民族意識」を覚醒させたということも否定はできない。このあとアイヌの復権運動は、萱野茂氏の参議院議員繰り上げ当選や、アイヌ神話上の聖地に建設された二風谷ダム問題などで最高の高まりを見せていく。日本政府は一貫して「日本に少数民族はいない」とする立場であったが、1991年にはじめてアイヌを「少数民族」と認めた。そして1997年に今までの「北海道旧土人保護法」が廃止され、代わりにアイヌを少数民族として認め、その文化を尊重する「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及および啓発に関する法律」(いわゆるアイヌ新法)が制定されて、今日に至っている。また、アイヌ語教室も北海道各地に開設されている。

  アイヌ語の復権

 アイヌ語は、かつてはアイヌの間で話されていた。しかし、同化政策が進むにつれ、しだいにアイヌ語は廃れていった。30年ほど前であれば、まだアイヌ語を母語とする人も多かったが、現在ではもはや日常的な会話の手段としての機能をほとんどなしていない。アイヌ新法ではアイヌ語の振興がうたわれており、北海道各地にアイヌ語教室が開設されたり、地元ラジオ局でアイヌ語講座が開講したりしている。しかし、このような方法では、ふたたびアイヌ語をよみがえらせることはきわめて困難であろう。ことに樺太アイヌ語はもはやネイティブスピーカーを失っており、もはや樺太アイヌ語がよみがえる可能性はゼロに近いであろう。このようにアイヌ語の復権の前途は厳しいものがあり、アイヌ新法施行も遅きに失した感がある。国がもっとアイヌ語振興に力を入れるのでなければ、アイヌ語の復権は難しいであろう。

  創造される伝統文化

 アイヌ自身によるアイヌの伝統文化復権運動も近年盛んである。1970年代以降、今までの観光用の伝統文化ではなく、アイヌ自身による伝統文化の復権を求める動きが盛んになり、1974年には萱野茂氏によって北海道沙流郡平取町二風谷に「二風谷アイヌ文化資料館」が開設された。萱野氏は1960年代から私費でアイヌの伝統的な民具の収集や口承文芸の録音を行なってきた人で、のちに参議院議員に繰り上げ当選し、アイヌ新法制定に尽力した。このアイヌ自身による伝統文化復権運動はとくに前述の中曽根発言を契機として、もっとも高まった。1989年からは毎年「アイヌ民族文化祭」が催されるようになった。これは、各地の古式舞踊保存会、アイヌ語教室などアイヌ文化を学んでいる人がその勉強の成果を披露し合うというもので、ここではアイヌ語劇、アイヌ語による講演、口承文芸の口演、伝統舞踊、ファッションショーなどが行なわれ、単なる伝統の継承から一歩進んで、新しいアイヌ文化の形態が模索されている。

 このような動きに対し、「それはアイヌの伝統とは違うのではないのか」という意見も出された。しかし、もはやアイヌの伝統文化は、和人がくる以前のそれに戻すことは困難である。また、仮に和人が来なかったとしても、現在においてもアイヌの伝統文化がそのままに残されていると考えるのには無理がある。そもそも、伝統文化であっても、多くのものが多少は外部から入ってきたものの影響を受けている。例えば、伝統的といわれる文様が施された衣服のなかには、明治以降になってつくられ始めたものもあるのであり、それは和人が来る以前の伝統文化とは違うものである。したがって和人が来る以前の伝統文化の状態に戻すことが、「真正なる伝統」の文化に戻すこととは考えにくい。そのように考えるのは、現代に生きるわれわれのなかに、無意識のうちに存在する文化的偏見、優越意識のなせるわざであるということを理解する必要があろう。

 樺太アイヌにトンコリという民族楽器がある。加納沖氏は、そのトンコリを用いてバンド活動をしている。しかし、これは本来、北海道アイヌには伝わっていない楽器であるし、弾き方も邪道であるとする人もいる。だが、もはやトンコリを伝統的に演奏できる人はいないのである。トンコリの伝統的な演奏方法は、今となっては知る由もなく、邪道であるという前に正道が存在しなくなっている。そのような状況においては、様々な弾き方が試されてよいものと思われる。もちろん、邪道であるという前に、伝統文化が失われたのは何が原因であったか、という事実関係を正確に把握することが最も重要なことであることはいうまでもないであろう。

  アイヌ「民族」という概念

 このような近年の動きに対し、アイヌ研究家として名高い河野本道氏は次のように批判している。

1980年代の半ば近くから『北海道旧土人保護法』に代わる『アイヌ新法』制定のための運動が盛んになりだしたがこの運動がすすめられていくのに伴って、次第にマスコミ、市民団体、研究者などによる迎合的な動向が強まり、それに批判的な見解をとる者が不当に虐げられるという問題が生起されるようになった。(中略)このような状況に伴い、現実のアイヌ系の者について、安易にアイヌ=アイヌ民族=少数民族=被差別民族=弱者とする見解が支配的となり、ご都合主義的にそのような理解に至るように、《アイヌ史》が一面的に語られ、そのため近現代のアイヌ系日本国民の体制や過去に依存しない前向きの生き方については、さっぱり顧みられないという有様になってしまった」[河野1996:15-16]

 また、河野氏は「アイヌ民族」という用語についても、アイヌの諸グループの文化が集団や地域によってかなりの差異があること、これらの集団が今日まで単一の社会集団を形成してきたとは考えられないこと、現在では、通婚や社会的融合の度合いから見てもはや一民族化をなしがたいほど社会的分解していることなどから、客観的に今日のアイヌ系の者を「民族」や「先住民族」とみなす理由を見出しにくいとしている[河野1999:17-29]

 しかしながら、このようなアイヌを一つの民族とする見方は、実は和人の進出以来、一貫して和人がアイヌをそのようにカテゴライズしてきたことによるものにほかならない。これは、アメリカ大陸に入植した白人が、先住民族を一括してアメリカ・インディアンと呼んだことと同じだと思われる。また、一民族化をなしがたいほど社会的分解をしているにせよ、現在でも差別が根強く残っている以上、それは和人側が自分とは違う「アイヌ」である、という認識をもって差別をしているわけであり、それはアイヌを民族であるとカテゴライズしてきた和人側の責任である。さらに、それほどの社会的分解が進んだ背景には、「旧土人保護法」による同化政策の進展や、圧倒的な人口の差も考慮せねばならないだろう。加えて、血の濃さであるとか、人種であるとかの論議は、とくに和人とアイヌの場合、それほど意味をなさないものと考える。近年の調査の進展によって、アイヌと縄文人骨のDNA文字配列が一致したことが明らかとなり、形質的にはアイヌと和人にそれほどの違いは見られないことが証明されている。また、開拓に失敗した和人の子をアイヌが引き取ったという話は各地にあり、アイヌの古老であるが完全な和人であるという例もある。以上のことから、「アイヌ民族」という概念は、明確な民族としての概念ではなく、多様性をもった、いわば「民族的集団」とでもいうべきものであろうかと思われる。

 

 

 

参考文献

 

アイヌ民族博物館監修

1993『アイヌ文化の基礎知識』草風館

秋野茂樹ほか編

 1998『アイヌ文化を伝承する』草風館

NHK「人体」プロジェクト

 1999『驚異の小宇宙・人体Ⅲ 遺伝子・DNA3NHK出版

河野本道

  1996『アイヌ史/概説』北海道出版企画センター北方新書

 1999『「アイヌ」—その再認識』北海道出版企画センター

知里真志保

 1973『知里真志保著作集3』平凡社

中川裕

 1997『アイヌの物語世界』平凡社ライブラリー

北海道

 1998『アイヌ民族を理解するために』北海道環境生活部総務課アイヌ施策推進室

北海道立北方民族博物館編

 1995Northern Peoples』北方文化振興協会

北方言語・文化研究会編

 1989『民族接触 北の視点から』六興出版

 

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