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中国領内ナーナイ族(赫哲族)と中国の少数民族政策について

 

黄任遠編 1992「導言」 『赫哲族風俗誌』 pp.1-4. 北京:中央民族學院出版社(民俗文庫之十五)より

  三江沃野,赫哲漁郷。      三江の肥沃な原野に、赫哲の漁村あり。

  這裡是一片豐穣而神奇的土地;  ここは豊かで不思議な土地、

  這裡是天鵝的樂園,龍的故郷。  白鳥の楽園、龍の故郷なのだ。

 

黒龍江、松花江、烏蘇里河(ウスリー川)はここで合流し、勇猛な赫哲族はここで小さな木船を漕いでヤスを用いて魚を捕り、雪カンジキを履いて槍を使って狩猟をして、何代も懸命に労働して、祖国の辺境の開拓と建設をしてきた。

長い歴史のなかで、赫哲族人民はみずからの労働で大きな物質財産をつくってきただけでなく、同時に知恵を用いて輝かしい文化芸術を創造してきた。現在、栄養が豊富で味がよい黒龍江の特産—マス、チョウザメ、大馬哈魚(サケ)と魚卵は外国貿易輸出品として世界各地に輸出され、「おいしい料理」との誉れが高い。魚皮と白樺樹皮工芸品は精巧で、「並ぶものがない」と称されるほどである。英雄叙事詩では伊瑪堪可、格薩爾、瑪納斯、江格斯が有名で、荷馬叙事詩と比べても美しい。優美で感動的な赫哲族の民謡は、「ウスリーの船歌」を代表として、国内外に広く知られている。

赫哲族はわが国で人口の最も少ない民族の一つであり、現在の人口は4245人あまり(1990)で、おもに黒龍江省同江市の八岔、街津口民族郷と饒河県四排民族郷、佳木斯市近郊の敖其村に居住している。さらに少数は扎遠、依蘭、媛濱、富錦、樺川、宝清県などに住んでいる。このほか、佳木斯、哈爾濱、長春、北京、新彊などにも少数が住んでいる。

赫哲族は居住地区によって差異があり、自称も異なる。富錦県大屯以上の地区の自称は「那貝N」、大屯から同江勤得利地区の自称は「那尼臥」、八岔からウスリー河流域での自称は「那奈」である。いずれも同じような意味で、「当地人」または「土着の人」といった意味である。このほか、彼らの間では「赫真Hézh?n」と「奇勒恩Qílè’?n」という呼び名があり、八岔郷からウスリー河流域に至るまでの赫哲族は「赫真」、勤得利から松花江流域の赫哲族は「奇勒恩」と呼ばれる。この両者の言葉には差異があり、現在赫哲族が使用している民族言語の大部分は「奇勒恩」語で、アルタイ諸語満州・ツングース語族満州・シナ語派に属している。現在、彼らの多くは漢字、中国語が通じるが、50歳以上の老人はまだ民族言語しか使用しない。

過去、統治階級は赫哲族を蔑視し、「使犬部」、「七姓野人」、「魚皮韃子」、「狗皮韃子」、「鹿皮韃子」などと呼んだ。労働人民は川の流れから見て「下流の人」、ロシア人は「高爾牒」、「戈爾徳」、「烏徳哥」、「阿槍」、「阿其泱」、「那篤奇斯」、「納特基」などと呼んだ。現在、旧ソ連領内黒龍江北岸には1万人あまりの赫哲族が居住し、「那乃」または「那敖」と呼ばれている。

「赫哲」には、「下流」あるいは「東方」の意味があり、一部の赫哲族が居住している地理方位を呼んだことによる。清代になりやっと民族の呼称となった。この民族名がもっとも古く見られるのは『清聖祖實録』(巻八22)で、「康熙二年,癸卯、三月壬申(166351)命四姓庫里哈等,進貢貂皮、照赫哲籌國例,在寧古塔収納。」との記載がある。清代乾隆帝時代に出版された民族誌『皇清職貢圖』にも「赫哲」が使われている。1934年に南京中央研究院が凌純聲の『松花江下游的赫哲族』を出版したのち、赫哲族の呼称が広まった。

赫哲族は悠久の歴史と勤勉・勇敢さを持つ民族で、長い間三江が合流する地域で労働し生活してきた。この地の古代先住民族は、春秋戦国時代には「粛慎Sùshèn」、「稷慎Jìshèn」、漢魏時代には「?婁Yìlóu」、南北朝時代には「勿吉」、隋唐時代には「靺鞨」、遼朝時代には「生女真」、または「五國部」、金朝時代には「兀的改」、元朝時代には「兀的哥」、明朝時代には「野人女真」と呼ばれた。このほか、史書には「窩集部」、「使犬部」、「魚皮部」などの名称が見られる。

 赫哲族は代々3つの川の肥沃な土地に住み、山水は縦横に入り混じり、樹木は生い茂っている。濁流には霞がかかっており、沼や湖には泡が漂っている。青々と延々と連なる川、樹海と雪原は、古来から豊かな天然の漁場と狩猟の場であった。この地では名魚「三花五羅、マス(俗称七里浮子)、チョウザメ(俗称魚中皇)、サケ(俗称大馬哈魚)が盛んに水揚げされ、タンチョウヅル、ハクチョウ、飛龍、東北トラ、カワウソ、クマ、シカ、クロテン、ギンギツネ、ムジナ、ノロなどの珍しい鳥獣が生息している。人々がよく使う「棒でキバノロを打ち、ひしゃくで魚をくみ、キジは竈に飛んでくる」という言葉はこの地の豊かさをあらわしている。このほか、果てしない樹海と深山の中には非常に多くの生薬と特産物が生長しており、そのなかにはチョウセンニンジン、キクラゲ、ヤマブシタケ、マツの実、トウモロコシ、キノコ、エゾキスゲ、ヤマブドウ、ワラビや、四季青々としているマツ、高くそびえるハコヤナギ、成長の早いヤナギ、ニレ、ムクゲ、カバノキ、オオナラ、ヤチダモなど数十種類の珍しい木材がある。

 赫哲族人民はこのような豊かで美しい自然環境をよりどころとして、大きな両手で三江流域の山と水を開発、征服してきた。赫哲族の民謡には「『2枚の板』で溝を掘り潤すことができ、『3枚の板』で川を海まで下れる」とあり、三江流域で活躍する赫哲族の勇ましい姿と労働の雄姿を生き生きと描き出している。

 赫哲族は頑強で不屈の民族である。歴史上、彼らは統治者の併合・征討に屈せず、何度も闘争を続けた。清の歴史書の記載によれば、1599年から1643年までの44年間に、統治者は赫哲族に対して17回あまりも兵を送っており、このことからも赫哲族人民の反抗精神がいかに頑強であるかがわかる。

 過去、赫哲族人民の生産は立ち遅れ、生活は困難を極め、文化は荒廃し、さまざまな疾病の被害を受けていた。とくに日本帝国主義が中国東北部を占領したときには、何世代も三江沿岸に居住してきた赫哲族に残虐非道な統治が行なわれ、隔離された沼地へ追いやられ、魚を捕ることも狩猟をすることもできなくなり、生計は断絶し、疾病が流行し、人口は急激に下降し、1945年の抗日戦争勝利までには全民族で300人あまりを残すのみとなり、民族滅亡の危機に瀕していた。

 新中国誕生後、赫哲族は再び三江の故郷に戻り、自らの手で家を再建した。このときから赫哲族は苦難の不運には徹底して結束し、新しい生命を獲得して、時代の変化の舟を漕ぎ始めた。彼らの斬新な態度は中華民族の林のなかに高くそびえている。民族の大家族のなかで、赫哲族はその他の各民族と同様に、民族平等の権利を享受し、国家大事に参加・管理している。生産は年を追って発展し、生産額も年毎に高くなった。ここ数年来、赫哲族漁民の平均収入は黒龍江省の各民族の農民・牧畜民のなかで先進しており、生産生活は明らかに改善している。機動船が木製船に取ってかわり、網は全部更新され、漁村は新しくなり、家はきれいになり、電灯は明るく、ビルはそびえ、「攝羅昴庫」「地 」に住み、魚油で火を灯していた時代はすでに過去のものとなった。テレビ、洗濯機、冷蔵庫、レコーダー、小型バイクなどの高級品は赫哲族の漁村に普及している。人民の文化水準も向上しており、赫哲族出身の作家、詩人、学者、画家、歌手、彫刻家、工芸家、技師、医師、教師なども現れた。教育と衛生事業も絶えず発展している。

 赫哲族の居住する地理環境と彼らの漁撈を主とする生産方式は、生魚食、魚皮衣の着用、地面に穴を掘った住居、樹葬、木器の使用、樺皮の船、犬ぞりの使用などの赫哲族独特の生活習俗を形成し続けてきた。現代の生産力推進の下で、赫哲族の風俗は絶えず変化、更新、進歩している

 

以上は赫哲族に関する中国の文献『赫哲族風俗誌』(黄任遠編1992『赫哲族風俗誌』北京:中央民族學院出版社)の「導言」(前書き)を、ほぼ原文に忠実な形で日本語訳したものである。なお、『中國少数民族』(國家民委問題五種叢書編輯委員會≪中國少数民族≫編冩組1981『中國少数民族』北京:人民出版社)にもほぼ同様の内容がより詳しく記述されてある。赫哲族だけでなく、どの少数民族に対する中国の文献を見ても、かならずといっていいほど、新中国成立以前の悲惨な生活状況と、新中国成立後の党の指導が声高に語られ、「文化大革命」の一時期を除いて、各少数民族の生活は向上している、と主張されている。日本でも一時期は新中国の少数民族政策が賞賛される傾向があった。しかし、実際にはチベット問題などにも見られるように、中国の少数民族政策にも数多くの矛盾があることが明らかになっている。

 現在、中国には56の少数民族が居住しているとされている。1949101日の中華人民共和国成立後、それまで民族名称に使われていた差別的な呼称を改め、もっとも人口の多いチワン族からもっとも少ないロッパ族にいたるまで、中国のすべての少数民族はそれぞれの文化・言語・権利・宗教などを保障され、どんなに人口の少ない民族からも日本の国会に当たる全国人民代表大会(全人代)に代表を送ることができることになっている。少数民族ごとの自治区も各省に設置されており、少数民族には「一人っ子政策」の免除など数々の優遇措置がとられているが、ソビエト連邦が実態は形骸化しているものの各少数民族の民族自決権が認められているのに対し、中国の場合は各少数民族の自決権は否定され、中華人民共和国内部での「区域自治」しか認められていない、という点に違いがある。

 しかし、中国共産党の少数民族政策が当初から少数民族の自決権を否定していたわけではない。中国共産党が結成されたのは1921年であるが、少数民族に関する公式の主張が出されたのは1922年の第2回全国代表大会(二全大会)である。この段階では、中国本土には連邦制ではなく統一した民主共和国を建設し、モンゴル・チベット・新彊それぞれに2つの自治邦を樹立し、中国本土と連合した連邦制を構想しており、民族自決権や分離権については曖昧な表現となっていた。これはこの時期、共産党は国民党と合作をしており、それが共産党の少数民族政策にも影響を与えていたためだといわれている。

 1927年、国民党はクーデターを起こして、国共合作は崩壊した。これ以後、共産党の民族政策は独自性を鮮明にしていった。1928年の六全大会では少数民族問題は「革命にとって重要な意味を有するものである」とされ、国内民族問題が本格的にとりあげられるようになった。1931年の中華ソビエト共和国全国代表大会では「中国境内の少数民族に関する決議」が採択され、少数民族の中国国家から離脱する権利が明確にされた。

 193410月からはじまった長征で、共産党軍は多くの少数民族居住地域を通過し、少数民族の実態見聞を通して少数民族解放の緊要性が痛感された。少数民族は、独立国家を樹立するか、中華ソビエト連邦に加入するか、自治区域を樹立するか、は完全に決定できる、と3つの可能性を示されたのがこの時期の大きな特徴であった。

 しかし、このような中国共産党の少数民族政策は、その後日中戦争が全面化し、抗日戦争のため共産党が再び分離どころか自治さえ認めない国民党と合作するようになると大きく変化していく。長征期にきわめて鮮明にされていた分離権は、抗日戦争期にはふたたび不鮮明なものとなった。当時、少数民族のなかには日本帝国主義の策動に呼応して中国に反対する動きがあった。このため、劉少奇は1937年に「大漢族主義に反対し、少数民族の自決権を承認し、独立自治の権利を認めるべき」と主張している。しかし、1938年に毛沢東が党中央会議で報告した「新段階論」では、これまでの共産党の少数民族政策は大きく転換される。民族自決の主張はまったく見られなくなり、連邦制にも言及されなくなった。少数民族の有する権利についても、漢族との「平等な権利」、「自分のことがらは自分で管理する権利」であり、樹立する国家も、漢族と少数民族が連合した「統一的な国家」とされた。今日の中国の少数民族政策は、この「新段階論」を基礎としている。

 解放後、新中国は「新段階論」に基づいて少数民族政策を進めてきた。その基本方針は、民族相互の平等の堅持と団結の強化、少数民族地区の自治の履行、少数民族幹部の養成、少数民族の経済・文化発展のための支援、少数民族の言語・文字の使用と向上の支援、少数民族の風俗習慣の尊重などであった。以前の主張よりもかなり後退したものではあったが、それでも解放以前よりも少数民族の地位が改善したことは否定できない。ただし、1937年に劉少奇が主張したような大漢族主義の克服をめざそうとする姿勢は、『赫哲族風俗誌』や『中国少数民族』を見る限りでは感じられない。『赫哲族風俗誌』や『中国少数民族』を見ても、過去の統治階級がいかに赫哲族を搾取したかについて書かれてはいるものの、漢族と赫哲族の間の矛盾についてはまったく言及されていない。さらに『中国少数民族』では、清末期に登場した赫哲族上層がいかに同族と漢族農民を搾取したかについて批判している。もちろんこの指摘は重要なことである。しかし、漢族の支配をまったく無視してこれを語ることは、まぎれもなく大漢族主義といわなければならないであろう。

 現在、中国では「中華民族」形成が謳われている。56の少数民族はすべて「中華民族」に組み込まれている。これは各民族の独立への願望を抑えるスローガンであると同時に、大漢族主義の復活であるといえよう。

 なお、赫哲族をはじめとした中ソ国境地帯に住む民族は、日本と無縁の民族ではない。旧満州国時代、これらの民族はソ連との国境地帯に住んでいたために、日本はソ連との結合を恐れた。通ソを理由とした弾圧が行なわれ、存亡の危機をもたらされた。しかし、その清算は何一つなされてはいない。日本人がこの地域の民族を研究するときに、こうした歴史があったことは、常に記憶されていなければならないであろう。

 

 

参考文献

 

黄任遠編

1992        『赫哲族風俗誌』北京:中央民族學院出版社(民俗文庫之十五)

國家民委問題五種叢書編輯委員會≪中國少数民族≫編冩組

1981        『中國少数民族』北京:人民出版社

志賀

 1986     『アムール 中ソ国境を駆ける』研文出版(研文選書28)

凌純聲

1990        『松花江下游的赫哲族』上海:上海文藝出版社(民俗・民間文藝影印資料之六十三)

吉田豊子

 1996     「中国共産党の少数民族政策」『歴史評論』549:44-62.東京:校倉書房

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