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中国領内ナーナイ族(赫哲族)の漁撈とその文化
Ⅰはじめに
ナーナイ族は、アムール川(黒龍江)、ウスリー川、松花江流域で、漁撈採集活動を伝統として生活してきた民族である。現在、ロシア国内に1万人以上*1、中国領内に4245人(1990年)*2が居住しており、ロシア側でナーナイ族、中国側では赫哲(ホジェン)族と呼ばれている。「ナーナイ」とは自称で、「土着の人」を意味し、「ホジェン」とは「下流」という意味である*3。ここでは、ナーナイ族のうち、中国領内に住む、ホジェン(赫哲)族と呼ばれる人たちの漁撈について報告してみたい。
Ⅱ漁撈の季節
ホジェン族の生業のなかでもっとも重要なのが漁撈であり、家屋も狩猟場から遠くても漁撈に便利な河辺に建てたことから、狩猟よりも重要視されていたと考えられていた*4。
ホジェン族の住む黒龍江・松花江・ウスリー川の一帯は厳寒の地であり、11月になると川の水が凍り始め、5月まで半年の間川の氷は溶けない。黄任遠編『赫哲族風俗誌』によると、ホジェン族の漁撈は春・秋・冬の通常3回に分けて行なわれる*5。
最初の漁撈は穀雨(4月20日ごろ)から小満(5月21日または22日)の約1ヶ月間にかけて行なわれる。この季節は一年のなかでも魚が豊富な季節であり、狗魚(カワカマス)などさまざまな種類の魚の群れが集中するので、漁獲量も多い。端午節(旧暦5月5日)前後にはチョウザメなどの大きな魚を多くみることができる*6。
次の漁撈は白露(9月7日ごろ)から霜降(10月23、24日ごろ)にかけての約40日間に行なわれる。この季節の漁撈は、毎年白露の前あたりから黒龍江を遡上するサケ(大馬哈魚)漁が中心である*7。毎年サケが大量に遡ってくる前は、ホジェン族のどの家も喜んで祝う。
川が凍結してから、氷が溶けるまでの半年近くは冬の漁期である*8。厳冬期には氷の厚さは1〜2メートルにもなるが、魚類の豊富な季節であり、氷を砕いて魚を捕獲する。
また、凌純聲『松花江下游的赫哲族』にも漁撈は3回に分けて行なわれるとあり*9、1回目は川の氷が溶ける春、2回目は立夏以後の夏、3回目は川が凍結する冬に行なわれる。
なお、ホジェン族をはじめとするアムールランドとサハリンの先住諸民族は、本質的に漁撈民であって、サケ類のような回帰性のある魚の遡上によって生活している。これらの地域では、同じようにサケ類を主要な食糧にしている北アメリカ北西海岸ネイティブや北海道アイヌ、本州東北地方の日本人に見られるようなサケ類に対する信仰や習俗は見られず、初サケ儀礼や終わりサケ儀礼もみられないが、漁期の初めと終わりを印象付ける儀礼が行なわれた。これらはすべての魚のために行なわれているのであって、サケのためだけに行なわれる儀礼は存在しない*10。この理由についてははっきりとした結論は出ていない*11。
Ⅲ漁撈の方法
ホジェン族の漁撈には、大きく分けて、ヤスや鉤を用いるものと網を用いるものの2種類がある*12。ヤスや鉤を使用するのは、かつてはホジェン族の主要な捕獲方法であった。ヤスは、長さ30㎝程度の先のとがった鉄製の銛を木にはめこんだもので、熟達したホジェン族の漁夫は川面に動く小さな波紋一つから、一瞬のうちに魚の種類を見分けて仕留めることができたという*13。冬の場合は、厚い川の氷を割り、直径1メートル程度の穴をつくり、その上に円錐形の藁小屋を建てて、そのなかに漁夫がヤスを持って入る。こうすることにより、穴をあけた部分が明るくならないので、魚が平然と付近を遊泳し、それを氷の上から眺めることができる。それを狙ってヤスで突いたのである*14。
網を使用して捕獲する方法は、近代になってからの捕獲方法であり、現在では主要な捕獲方法となっている。網には多くの種類があり、引き網、仕掛け網、上げ網、掛け網、円錐網などがある*15。
冬期には、氷上に3〜4メートルの間隔で2つの穴をあけ、網を柔軟な木の枝に結んで、一方の穴からもう一つの穴に通して、氷の下を泳ぐ魚をすくった*16。現在では、漁撈の多くは網によって行なわれるようになり、伝統的なヤスを用いた漁撈は少なくなった。このほか、一本釣りによる捕獲方法もあり、老人及び子供の仕事であった*17。
夏期の漁の際には、かつては丸木舟や樺皮船に乗って行なわれた。現在では伝統的な形を残した船に、近代的な動力エンジンを載せたものが一般的となっている*18。
Ⅳ魚皮衣
かつては、ホジェン族では盛んに魚皮衣が着用されていた。魚の皮を利用して衣服や靴を作るのはホジェン族以外にもニブフや樺太アイヌでも盛んに用いられていたが*19、とくにホジェン族は漢族や満族から「魚皮韃子Yúpídázi」という蔑称で呼ばれていた。魚皮衣はハレの日の特別な衣類であり、襟首や腰や裾回りに赤い色布を貼り付けて刺繍で飾った。古くなると普段着となったという*20。
魚の皮をなめし、衣服や靴を作るのは女性の仕事であり、サケのほかにもコクチマス、ナマズ、コイ、チョウザメなどの皮が利用された。このうち、チョウザメの魚皮は夏服専用であるが、ほかの魚皮はおもに冬服用であった*21。
魚皮を加工する際には、捕って間もない魚の腹を裂いて内臓を取り除き、少し乾燥させたのち、頭と尾びれを切り取り、魚皮を肉から剥がした。剥いだ魚皮は平らな板の上などに貼り付けてすっかり乾燥させ、台の上で「クウンク」とよばれる木槌で丹念に叩いて、余計な付着物を取り除いていった。この作業はたいへん手間のかかるものであり、妻や娘たちは魚の捕れる春先から秋までの間に、家族の服や靴などを作るために必要な量を蓄えなければならなかった。1枚の服を作るのに多種類の魚皮を組み合わせることはなく、単一種が基本である。これは魚皮の質が種類によって異なるためであった*22。
現在ではこうした魚皮衣を日常的に着る人は一人もなく、博物館や研究機関などから依頼を受けて製作する程度である*23。
Ⅴホジェン族の現在
このような伝統的な漁撈方法や魚皮衣も、近世以後、ロシア人や漢族との接触によって徐々に変容していった。とくに清朝の支配はホジェン族の風俗・習慣・文化などに大きな影響を与えた。伝統的な魚皮衣も、仕立てのスタイル全体は、清朝文化の強い影響を受けており、髪型も満族の習慣にならい、弁髪にしていた*24。このように、すでに清朝時代には風俗・習慣の満族化・漢族化が進んでいたが、それでも薩満(シャーマン)の神事などの伝統的な行事や習慣は、満州国時代にも多少は残っていた*25。新中国建国後も、当初は伝統的な文化は比較的残されていたが、1960年代後半から70年代前半かけての約10年間に中国全土に吹き荒れた「文化大革命」の嵐のなかで、多くの伝統文化が排斥され、消滅していった*26。ホジェン族に限らず、中国の多くの少数民族が「文化大革命」によって伝統文化を破壊された*27。1981年に「文化大革命」は全否定されたものの、伝統的な文化はほとんどが失われてしまった。現在では、中国のホジェン族の多くは、中国の一般的な生活とほとんど大差がなくなっている。
ホジェン族は、現在でも漁撈活動を盛んに行なっている。漁撈の近代化が進み、伝統的なヤス漁は現在ではあまり見られなくなった。漁船も現在では伝統的な形を残したものに動力エンジンを載せた船が一般的である。
ホジェン族の暮らす黒龍江、松花江、ウスリー川一帯は、チョウザメやサケなどの高級魚が豊かな地で、ホジェン族はこれらの魚を捕獲して生活してきた。チョウザメやサケは高値で取引されるため、ホジェン族の生活はたいへん豊かで、ホジェン族一戸あたりの平均収入は、1987年現在で中国平均の4倍以上にもなり*28、中国の少数民族のなかでもとくに裕福な民族といえる。
中国領内に暮らすホジェン族の総人口は、1990年統計によると4245人であるが、1949年の解放時にはわずか300人あまり、1978年でも約800人と、中国で最小の民族であった*29。ところが、1982年統計では1476人となっており*30、1978年から82年までの4年間に人口が約2倍に、さらに82年から90年までの8年間に約3倍に増加したことになる。これほどの急激な人口増加の理由としては、中国政府の少数民族に対する優遇措置が背景にあると考えられる。漢族が裕福なホジェン族と異民族間で結婚するケースが増えており、この場合、生まれた子どもは将来、漢族を名乗るか、ホジェン族を名乗るかの選択を迫られるが、ホジェン族に対する優遇措置があるために、漢族ではなくホジェン族を名乗るケースが多いのである。実際、ホジェン族など少数民族は、「一人っ子政策」の免除や、漢族よりも比較的進学しやすい点で優遇されており、現在、多くのホジェン族の若者がハルピンや北京の大学でこの制度の恩恵を受けて勉強に励んでいるという*31。しかし、急激な人口増加の一方で、ホジェン語を話せる人は少なくなり、多くの人々が中国語を話している*32。これは国語である中国語を習得するほうが社会的に有利だからであり、このような状況は、オロチョン族やエヴェンキ族などの極小民族も同じである。
なお、ホジェン族は日本人にとって無縁の民族ではない。ホジェン族は旧ソ連と中国にまたがって生活しているために、満州国の時代、日本はソ連との結合を恐れ、ホジェン族に対して「通ソ」を理由とした弾圧を行なった。1942年には日本軍によってすべてのホジェン族が、強制的に国境付近から密林のなかに移住させられ、1945年までの3年間に、慣れない山中での生活によって多くの人々が病気にかかって死んだといわれている*33。しかし、この事実はほとんど知られておらず、その清算は何一つなされてはいない。日本人がホジェン族の研究をするときには、何よりもまず、こうした負の歴史があったことを認識する必要があるといわなければならないであろう。
註
*1 黄任遠編『赫哲族風俗誌』(北京:中央民族学院出版社、1992)、2頁。
*2 黄前掲書、1頁。
*3 黄前掲書、2頁。
*4 赤松智城「赫哲族」(赤松智城・秋葉隆編『滿蒙の民族と宗教』 京城:大阪屋號書店、1941)、166頁。
*5 黄前掲書、45頁。
*6 同上。
*7 黄前掲書、45-46頁。
*8 黄前掲書、46頁。
*9 凌純聲『松花江下游的赫哲族』(上海:上海文藝出版社、1990)、82-87頁。
*10大林太良「北太平洋地域の神話と儀礼における鮭」(『北の人文化と宗教』 東京:第一書房、1997)、141-160頁。
*11サケに対する儀礼は、アメリカ側でもアジア側でも、捕獲される地域よりも狭い分布を持っており、アメリカ側で北緯40度から55度までの間、アジア側で北緯37度から45度までの間で行なわれ、これより北のサケの捕れる地域では、サケ捕獲のために特に行なわれる儀礼の欠如した地域となっている。大林太良氏はこの理由について、これらの地域では特定の種類の魚が到来することよりも、土地の河川の凍結や解凍がもっとも大事だと考えているのではないか、と解釈している(大林前掲論文、159-160頁)。
*12赤松前掲論文、166-167頁。
*13NHK取材班『秘境興安嶺をゆくⅠ』(東京:日本放送出版協会、1988)、172-176頁。
*14赤松前掲論文、166頁。
*15黄前掲書、38-40頁。
*16赤松前掲論文、166-167頁。
*17NHK取材班前掲書、234頁。
*18赤松前掲論文、167頁。
*19渡部裕「北東アジア沿岸におけるサケ漁(Ⅱ)」(『北海道立北方民族博物館研究紀要』第6号 網走:北方文化振興協会、1997)、201頁。
*20NHK取材班前掲書、235-236頁。
*21NHK取材班前掲書、236頁。
*22NHK取材班前掲書、237頁。
*23NHK取材班前掲書、242頁。
*24NHK取材班前掲書、240頁。
*25赤松前掲論文、177-178頁。
*26NHK取材班前掲書、119頁。
*27國家民委民族問題五種叢書編輯委員會≪中國少数民族≫編冩組『中國少数民族』(北京:人民出版社、1981)、23頁。
*28NHK取材班前掲書、163-164頁。
*29國家民委民族問題五種叢書編輯委員會≪中國少数民族≫編冩組前掲書、57頁。
*30NHK取材班前掲書、233頁。
*31NHK取材班前掲書、144-145頁。
*32黄前掲書、2頁。
*33NHK取材班前掲書、133頁。
参考文献
赤松智城・秋葉隆編
1941 『滿蒙の民族と宗教』 京城:大阪屋號書店
NHK取材班
1988 『秘境興安嶺をゆくⅠ』 東京:日本放送出版協会
大林太良
1997 『北の人 文化と宗教』 東京:第一書房
黄任遠編
1992 『赫哲族風俗誌』 北京:中央民族学院出版社
國家民委民族問題五種叢書編輯委員會≪中國少数民族≫編冩組
1981 『中國少数民族』 北京:人民出版社
志賀勝
1986 『アムール 中ソ国境を駆ける』 東京:研文出版(研文選書28)
シロコゴロフ,S.M.
1941 『北方ツングースの社會構成』 川久保梯郎・田中克巳訳 東京:岩波書店
北海道立北方民族博物館編
1999 『神の魚・サケ』 網走:北方文化振興協会
凌純聲
1990 『松花江下游的赫哲族』 上海:上海文藝出版社
渡部裕
1997 「北東アジア沿岸におけるサケ漁(Ⅱ)」『北海道立北方民族博物館研究紀要』
6:199-216. 網走:北方文化振興協会
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