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「アイヌ民族」の形成に関する一考察

 

アイヌの人びとに対する和人の支配は、和人移住後15世紀半ばのコシャマインの戦い以降、松前藩時代、明治維新後の時代まで一貫して続けられたとする見方が多い。しかし、歴史的に見れば江戸時代以前の「和人」は、実は中世蝦夷に由来するものが多く、一概に「アイヌ対和人」といった構図で語ることは難しいものと思われる。また、アイヌの人びとと和人との関係の変化は、「渡党」の和人化、ロシアの南下など国際情勢、生産手段の巨大化などと密接に関係しており、これらを無視して論じることはできないものと思われる。

1.和人の移住と中世の蝦夷地

蝦夷地に初めて和人が移住したのは平安時代末期か期から鎌倉時代初期といわれている。彼らは、戦いに敗れた武士、犯罪者、あるいは一般の漁民で、南部の沿岸地域に「和人」社会を形成した。鎌倉時代には蝦夷管領(えぞかんれい)が置かれ、執権北条義時の代官として安藤氏(15世紀以降は安東氏と称す)が蝦夷を支配する権限を与えられていた。

14世紀前半に成立した『諏訪大明神絵詞』(資料1)によれば、当時の蝦夷は「日の本」「唐子(からこ)」「渡党(わたりとう)」の3集団に大別されている。このうち「日の本」蝦夷は北海道太平洋岸に居住しラッコ皮交易に従事していたアイヌの人びと、「唐子」蝦夷は北海道日本海沿岸から樺太西岸にかけて居住し中国と接触しその文化を吸収していたアイヌの人びとと考えられている。これに対し、「渡党」蝦夷は道南の津軽海峡沿岸部に拠点をもつ交易の民であり、松前藩最古の記録である『新羅之記録』によれば源頼朝の奥羽征服の際に北海道に逃げ込んだ者や鎌倉幕府に流刑とされた者の子孫で、北海道の生活や文化に適応した人びととされている。渡党は安藤氏に従属していた。

15世紀に入ると蝦夷島・東北地方北部周辺地域での交易が活発化し、道南地域に館(たて)を築いて館主に成長する渡党も現れた。これに伴い渡党と日の本・唐子との経済トラブルが表面化し、1456年マキリの価格をめぐる刃傷沙汰をきっかけとしてコシャマインの戦いが起きたが、翌年蛎崎(かきざき)氏の下にいた武田信広がコシャマインを討ち、蛎崎氏がしだいに渡党の統一者として安東氏に代わり台頭するようになった。この功績により武田信広は蠣崎氏の婿養子となり、姓も蠣崎に改めた。武田信広は清和源氏に由来する名門武田氏の傍流・若狭武田氏の出身とされているが、彼の出自には疑問点が多く、真偽の程は定かではない。しかし、公式には清和源氏の子孫である武田信広を一族に組み入れたことにより、蠣崎氏は中世蝦夷の流れを汲みながらも、清和源氏の末裔となることから、蝦夷地の渡党の中では特別な権威を持ち支配的な立場に立つようになった。この蛎崎氏の子孫が松前藩である。

2.松前藩の成立とアイヌの人びと

 1592年、蛎崎慶広は豊臣秀吉に謁見し、蛎崎氏の経済的基礎を保障する朱印状(資料2)を下賜された。これにより蛎崎氏は安東氏から完全に自立し、名実ともに豊臣政権内の自立した大名となった。さらに1599年には徳川家康に臣従し姓を松前に改めた。1604年には家康より黒印状(資料3)を下賜され、ここに松前藩が成立した。秀吉朱印状・家康刻印状を得たことにより、松前氏は中世蝦夷の系統である「渡党」から幕藩体制下の最北端の大名となり、完全に「和人」政権の仲間入りをすることとなった。

一方で、アイヌの人びとはその行動は「心まかせ」とされ、幕藩体制の枠外の人びと、幕藩体制にとって異域の人びととされることとなった。幕末に至るまで蝦夷島で和人が定住していたのは松前を中心とする狭い範囲内であったのは、松前藩が領内で米が取れずアイヌの人びととの交易に依存していたため、人口も面積もできるだけ小さい方が適していたためだけでなく、「異域」である蝦夷地の開拓を進めるのは鎖国政策の自己否定という側面もあったからである。1664年に徳川家綱が松前高広に宛てた朱印状では幕府の鎖国政策を投影して「蝦夷人之儀者雖往来于何処方可為其心次第」と蝦夷地でのアイヌの人びとの自由な生産活動を保障している。

領内で米を産出できない松前藩では、蝦夷地の海辺に商場を設けて対アイヌ交易権を知行として家臣に与えた(商場知行地制)1665(寛文5)年頃、松前藩は一方的にアイヌ側との交換基準を米2(30kg)=干鮭100本から米7(10.5kg)=干鮭100本に改めたほか、アイヌの人びとの通行圏を一方的に蝦夷地に限定し、松前城下への往来を禁止し、蝦夷地を徹底的に隔離した状況におくようになった。1669年のシャクシャインの戦いの原因はこうした松前藩の政策によるものであった。

18世紀初頭になると、商場知行地制は商人が藩主に運上金を納めて交易や漁業経営を請け負う場所請負制に移行した。享保から宝暦期(175164)にかけて知行主の間に場所の境界をめぐる争いが頻発した(「場所境論」)が、松前藩は「夷次第」を原則として対処し、場所の境界はアイヌの人びとの慣習やイウォル(生活圏)を尊重する形で決め、強いて場所境を争うものは処罰された。しかし、このような原則も18世紀後半、ロシアの南下に直面した頃より転換されはじめた。すなわち「異域」に位置づけられていた蝦夷地の、内なる蝦夷地への転換のはじまりであった。

3.ロシアの南下とアイヌの人びと

 18世紀中頃になると、次第にロシアの南下が懸念される状況となり、これを意識した蝦夷地論が形成された。幕府は松前藩に北方警衛の能力がないと判断し、1799年に東蝦夷地、1807年には西蝦夷地も直轄することにしたが、1813年にゴローニン事件が解決したのちは日露関係が平穏化したため幕府は1821年に蝦夷地を松前藩に返還した。

 また、1739年頃よりアイヌの人びとを使役した魚肥の大量生産が開始された。蝦夷地産魚肥は主に関西で流通し、蝦夷地は幕藩体制の流通網の一端に組み込まれるようになった。次第に大網を使用して魚類を大量に捕獲し、締粕・魚油生産がはじまり、それは時として強制労働を伴うものであった。1789年に起きたクナシリ・メナシの戦いは場所請負人飛騨屋久兵衛の酷使と魚類の大量捕獲に伴う越冬食料の不足が原因であった。翌1790年には同じ理由で和人地漁民が一揆を起こしている。

 東蝦夷地を直轄した幕府は、アイヌの人びとに対し、風俗の改変、耕作の奨励、和語の使用など急激な和風化の方針でのぞんだが、これらは激しい反発を招いたことから緩やかなものに変わった。一方、復領後の松前藩は以前と同様、徹底した和人との隔離政策を採っている。

 1855年、幕府は北方情勢の緊迫化に伴い松前周辺をのぞく蝦夷地全域を直轄化した。これに伴い、前回以上に強引な風習の和風化、「陋習」禁止、和語使用など「改俗」の強制が行なわれることとなった。また、これまで原則的に許されていなかった蝦夷地への和人の定住も緩和されるようになり、和人地と蝦夷地の差異はほとんどなくなり、ここにおいて蝦夷地の内国化は実質的に完了したといえる。

4.まとめ

 今日、「アイヌ」という言葉は北海道アイヌのみならず樺太アイヌ(エンチゥ)や千島アイヌ(クリルアイヌ)も含み、ときには古代・中世において「蝦夷(えみし)」「蝦夷(えぞ)」と他称された奥羽地方の古来民も含まれ、さらにはそれが一つの「民族」として理解される場合もある。しかし、歴史をひもとけば、これらの集団はそれぞれ別個の集団として文化的・歴史的にもかなりの独自性が見られており、「アイヌ」を一「民族」として扱うことは、それぞれの集団の文化的・歴史的独自性を無視することにつながりかねない。また、こうした定義の仕方は、かつて和人が「渡党」も「蝦夷」と呼んだのと同じく、つねに和人側が行なってきたことであることも忘れてはならない。

 

<資料編>

資料1 諏訪大明神絵詞(海保199679-80)

 当社ノ威神力ハ末代也ト云ヘトモ、掲焉ナル事尾多キ中ニ、元亨・正中ノ比ヨリ嘉暦年中ニ至ルマテ、東夷蜂起シテ奥州騒乱スル事アリキ。蝦夷カ千嶋ト云ヘルハ、我国ノ東北ニ当テ大海ノ中央ニアリ、日ノモト、唐子、渡党、此三類各三百三十三ノ嶋ニ群居セリト、一嶋ハ渡党ニ混ス、其内ニ宇曽利鶴子別ト萬堂宇満伊犬ト云フ小嶋トモアリ、此種類ハ多ク奥州津軽外ノ浜ニ往来交易ス、夷一把ト云ハ六千人也、相聚ル時ハ百千把ニ及ヘリ、日ノ本、唐子ノ二類ハ、其地外国ニ連テ、形躰夜叉ノ如ク変化無窮ナリ、人倫、禽獣・魚肉ヲ食トシテ、五穀ノ農耕ヲ知ス、九沢ヲ重ヌトモ語話通シ堅シ、渡党ハ和国ノ人ニ相類セリ、但鬢髪多シテ、遍身ニ毛ヲ生セリ、言語俚野也ト云トモ大半ハ相通ス、此中ニ公超霧ヲナス術ヲ伝ヘ、公遠隠形ノ道ヲ得タル類モアリ、(以下略)

 

資料2 豊臣秀吉朱印状(海保1996165-166)

 於松前従諸方来船頭商人等、対夷人、同地下人、非分義不可申。並船役之事、自前々如有来可取之。自然此旨於相背族在者、急度可言上、速可被加御誅罰者也。

   文禄二年正月五日   朱印       

                                        蛎崎志摩守トノヘ

※ アイヌの人びと(「夷人」)と、和人(「地下人」)を同等の存在とし、双方への「非分」を禁止している。

 

資料3 徳川家康黒印状(北海道開拓記念館蔵)

 

資料4 蝦夷交易の制三章(海保1996168169) 

 (1)諸国より松前の地に出入りする者、慶広に其旨告ずして夷人と交易せば曲事たるべし(2)慶広に告ずしてみだりに渡海して通商する者あらは速に府にうたへ出べし(3)夷人は何方に往来するとも心まかせたるべし。夷人に非義を申かくべからず。これに違犯せば厳科に処せらるべしとなり

 

<文献>

大阪人権博物館編

 2000  『博覧会 文明化から植民地化へ』 大阪:大阪人権博物館

海保嶺夫

 1979  『近世の北海道』 東京:教育社(教育者歴史新書)

 1996  『エゾの歴史』 東京:講談社(講談社選書メチエ)

芸術新潮編

 1999  「特集 いま全地球が注目している! 北の民族アイヌに学ぼう」『芸術新潮』第50巻第7号、6-61頁。 東京:新潮社

河野本道

 1996  『アイヌ史/概説』 札幌:北海道出版企画センター(北方新書)

麓慎一

 2002  『近代日本とアイヌ社会』 東京:山川出版社(日本史リブレット)

北海道開拓記念館

 1999  『アイヌ文化の成立』(常設展示解説書2) 札幌:北海道開拓記念館

 2000  『近代のはじまり』(常設展示解説書4) 札幌:北海道開拓記念館

 2002  『蝦夷地のころ』(常設展示解説書3) 札幌:北海道開拓記念館

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