このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

第3章 尾張徳川家による北海道開拓のプロセス

 

3-1 尾張藩士族と幕末維新

尾張藩・尾張徳川家について

ここでは、本論文で取り上げる八雲町に入植した士族たちが暮らしていた尾張藩とは如何なる存在であったのかについてふれておきたい。

尾張藩は江戸時代には石高60万石以上を誇る雄藩であり、その所領を治めていたのは尾張徳川家であった。この尾張徳川家は御三家と呼ばれ、将軍家の血統が絶えた場合でも対応できるように徳川家康が創設したものであった。尾張徳川家のほかに紀伊徳川家・水戸徳川家があるが、そのなかでも尾張家は御三家筆頭と目されていた。

 尾張藩の初代藩主は、1601年に家康の第九男として生まれた義直であり、1607(慶長12)年に尾張国に封じられたのが尾張藩の始まりである。のちに美濃と信濃の一部を加封され、1619年には総石高61万9450石といわれ、その当主は従二位権大納言を極位極官とする家格とされていたという。

 しかし、尾張家は御三家筆頭としてのプライドが強かったために、しばしば将軍家と対立することもあった。義直は儒教を尊び尊王の志に厚く、その著『軍書合鑑』に「王命に依って催さるゝ事」、つまり万が一幕府と朝廷が戦う事態となった場合は朝廷側につくようにと記し、御三家でありながら朝臣であるという思想は藩訓として尾張藩に代々受け継がれるようになった。このため、尾張家は御三家でありながら将軍家から警戒される存在となった。

尾張家と将軍家との対立は、8代将軍吉宗の時代に決定的なものとなった。このころ幕府の財政は危機的な状況に陥り、これを建て直すために吉宗は質素倹約令を出すなど、緊縮財政政策を推進している(享保の改革)。これに対し、7代尾張藩主宗春は吉宗に対する対抗心が強く(2)、幕府に対抗してむしろ積極的な自由放任政策をとった。将軍吉宗が庶民に遊興にふけることを禁止したのに対して、宗春は祭礼・能楽・舞踊・芝居などを奨励した。

こうして数年で名古屋の城下町は繁栄を謳歌し、江戸・京都・大坂に次ぐ大都市へと発展した。これに伴い華道・茶道・俳諧といった芸事が盛んになり、今日「芸どころ」とも呼ばれる名古屋の基礎がつくりあげられることになった。しかし、このような自由放任政策は吉宗が進める緊縮財政政策とは真っ向から対立するものであり、その後宗春は幕府から蟄居を命じられ、死後も墓に鉄格子を被せられるなど厳しい処分が下され、罪を許されたのは死後75年を経た1839年のことであった。

こののち幕府は田安徳川家・一橋徳川家・清水徳川家の御三卿を新たに創設した。これは江戸幕府成立から100年以上を経て御三家間の血の繋がりが遠くなってきていたためであるが、尾張家から将軍を出させないという目的もあった。御三卿の創設によって、尾張家から将軍が擁立される可能性は事実上なくなり、実際に尾張家から将軍はついに擁立されなかった。徳川御三家のうち将軍を一人も輩出していないのは尾張家だけである。

 

(図4) 徳川氏系図

※徳川美術館HPより転載(http://www.tokugawa-art-museum.jp/)

 

ところで、尾張家は将軍家にならい、支藩として美濃の高須藩松平家(四谷家)、福島の梁川藩松平家(大久保家)、松平家(川田久保家)の3分家を創設し、御連枝と呼んで、直系が途絶えた場合は御連枝から藩主を擁立することにしていたが、9代藩主宗睦が1799年に死去すると、宗睦には後継者がいなかったので、義直以来続いた血統がついに断絶することとなった。

そこで幕府は尾張藩士の強い反対を押しきって、4代続けて尾張家に養子を押しつけた。この4人はいずれも紀伊家の血統であり、1849年に14代慶勝が支藩高須松平家から迎えられるまでの50年間、尾張家は完全に吉宗の血をひく藩主に乗っ取られることとなった。

もともと、義直以来伝統的に受け継がれてきた、御三家でありながら朝臣という藩訓があったこともあり、尾張藩士の間には幕府に対する反感がしだいに強くなっていった。幕末になると「金鉄党」を結成して、次第に尊王反幕に傾く武士たちも現れるようになっていった。

 

(図5) 高須松平家系図と「高須四兄弟」

 

①松平義行(第3代尾張藩主徳川光友二男)━②義孝━③義淳(=第8代尾張藩主宗勝)━④義敏━⑤義柄(=第9代尾張藩主宗睦養嗣子徳川治行)━⑥義裕━⑦勝当━⑧義居(一橋家からの養子)━⑨義和(水戸家からの養子)━⑩義建※━⑪義比(=第15代尾張藩主茂徳=第10代一橋家当主茂栄)━⑫義瑞━⑬義勇━⑭義生

<高須四兄弟>

※義恕(第10代義建二男、のち第14代尾張藩主慶勝)

⑪義比(義建五男、のち第15代尾張藩主茂徳、第10代一橋家当主茂栄と改名)

 容保(義建七男、のち第9代会津藩主)

 定敬(義建八男、のち桑名藩主)

 

幕末の国内情勢と尾張藩

1853年6月3日、現在の神奈川県浦賀沖にペリー率いる黒船が来航した。翌1854年3月、江戸幕府は日米和親条約を締結し、これにより従来の鎖国体制は撤廃された。さらに幕府は1858年6月には日米修好条約に調印した。このようななかで全国的に尊王攘夷運動が広まったので、時の大老井伊直弼は安政の大獄といわれる大粛清を断行したが、1860年3月に桜田門外の変により井伊直弼が暗殺されると、もはや幕府の威信は完全に地に落ち、薩摩藩・長州藩などでは討幕論が公然化しはじめた。

 このころ尾張藩内部でも、佐幕派(親幕府派)のふいご党と尊王派の金鉄党(金鉄組)の二派が存在し、暗黙のうちに対立していたといわれている。1849年に14代尾張藩主の座についた徳川慶勝は支藩美濃高須藩主松平義建の二男であり、10代尾張藩主宗睦が没して以来50年ぶりの尾張家支藩出身の当主であった。慶勝は15代将軍慶喜の従兄弟にあたるが、藩祖以来の尊王の志が厚く、鎖国攘夷の立場をとっていたので、幕府からはきわめて警戒されていた。1858年には慶勝は同じく尊王攘夷派の前水戸藩主徳川斉昭、水戸藩主徳川慶篤、越前福井藩主松平慶永(松平春獄)とともに江戸城に不時登城して、独断で日米修好通商条約に調印した井伊大老をきびしく詰問している。この結果、慶勝は家督を弟の茂徳に譲り、井伊大老暗殺後の1860年4月に解かれるまで蟄居・謹慎を命じられた。

1864年7月、尊王攘夷派の急先鋒であった長州藩の急進派が京都に出兵し、会津・薩摩等の京都警備勢と衝突した。この事件は禁門の変または蛤御門の変と呼ばれている。朝廷はただちに幕府に長州藩を朝敵として追討するよう命じ、幕府は21藩からなる追討軍を派遣することとした。この第一次長州征伐の総督に任命されたのは慶勝であった。これは長州征伐で尾張藩の武力をそぐ意図もあったものと思われるが、征長軍参謀の西郷吉之助(のちの隆盛)の進言もあって、慶勝は武力衝突ではなく長州藩に謝罪させる方針をとった。この結果、長州藩は3家老を自刃させ、藩主父子は剃髪して伏罪書を提出したので、征長軍はこれを了承して撤兵し、一度の武力衝突もなしに終結させることに成功した。

 1867年10月14日、将軍慶喜は大政奉還を朝廷に申し出て、同年12月には王政復古の大号令が出され、約260年にわたった江戸幕府は崩壊した。しかし、同じころ幕府の兵士が江戸にあった薩摩藩邸を焼き討ちしたことから鳥羽伏見の戦いが勃発し、1868年1月7日には慶喜追討令が公布され、以後1869年5月の五稜郭の戦いで旧幕府軍が降伏するまで戊辰戦争と呼ばれる戦乱が続いた。

 1863年、15代尾張藩主茂徳は甥の義宜(慶勝の子)に藩主の座を譲り、のちに御三卿の一橋徳川家に養子入りすることとなった。しかし、16代義宜はまだ幼かったため、実質的な藩主は慶勝であった。

慶勝は尊王攘夷派ではあったが、尾張藩が朝廷方につくべきか幕府方につくべきか、旗色を鮮明にはしていなかった。当時の尾張の藩論は佐幕派と討幕派に二分されている中で安易に朝廷方につくことは藩を分裂させることにつながりかねなかったためである。また、慶勝の弟の会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬は強硬な佐幕派として知られていたので、心情的にも討幕派につきにくかったこともあるだろう。しかし、討幕派から見れば、江戸への通り道にあたり軍事上の要地である62万石の大藩・尾張藩が幕府方につくことは朝廷方にとっては非常に不利になることであり、何としても尾張藩を味方につける必要にせまられた。

1868年1月6日、京都にいた慶勝に名古屋城から、監察の吉田知行という人物が密使として早馬で名古屋での不穏な動きを伝えてきた。この吉田知行こそ、のちに八雲開拓のリーダー格となる人物であり、不穏な動きとは、尾張藩内の佐幕派が幼君(義宜)を擁して旧幕軍に合流し再び京都に上ろうとたくらんでいる、というものであった。また、同じころ朝廷から慶勝に対し、藩内の姦徒を誅戮し、勤王の志を奮起させよとの朝命が出されていた。

朝廷が一藩内の出来事にまでいちいち命令を出すことは通常ではあり得ないことであったが、尊王の志の篤い慶勝としては、朝命に逆らうことはできなかった。1868年1月21日、名古屋に戻った慶勝は御前会議を開き、佐幕派の中心人物と目されていた渡辺新左衛門ら3名に対して「年来姦曲の所置これある候につき、朝命により死を賜うものなり」という上意を言い渡し、何ら抗弁の機会を与えぬまま斬首した。このあとさらに11名、合計14名の佐幕派が明確な理由を知らされることなく「問答無用」とばかりに斬首され、その一族も家名断絶などに処せられた。

 この事件は斬首された渡辺新左衛門家の別称にちなんで「青松葉事件」といわれており、のちの八雲開拓に従事した旧尾張藩士には金鉄組のリーダー格であったといわれる吉田知行をはじめ、この事件の関係者が多数含まれているという。しかし、この原因や理由については幕末維新期の激動などで記録が残っておらず、処刑に関わった旧藩士が次々と非業の死を遂げたことから、関係者の間で徹底的に篏口令がしかれていたこともあり、真相は明確に把握できていない。通説としては、尾張藩御付家老の成瀬氏と竹腰氏(3)の長年にわたる勢力争いであるという説や、大藩である尾張藩が幕府方につくことを恐れた公卿岩倉具視や薩摩・長州の陰謀であるという説などが挙げられている(4)

ともかくもこの青松葉事件によって、尾張藩は幕府の親藩でありながら藩内を尊王一筋に統一することに成功した。これ以後、尾張藩は完全に朝廷方に与することとなり、官軍の要請で出陣して奥羽列藩同盟(反薩長同盟)と戦火を交えるなど、慶勝にとっては実の兄弟を敵にまわすことにもなったが、結果として明治維新に大きく貢献したことになった。もしここで尾張藩が朝廷方に与していなかったとしたら、現在の日本の歴史はまた違った姿になっていたかもしれない。

 

明治維新後の尾張藩と士族

1867年12月、王政復古の大号令が出され、従来の幕府・摂政・関白などを廃止して、総裁・議定・参与の三職をおく新政府をつくることとなった。尾張藩からは慶勝が議定に任命されたほか、多数の藩士が参与に任命された。

 しかし、新政府の中枢は薩摩・長州出身者が握っており、従来の攘夷の方針を転換し、開港して諸外国と交流する方針をとった。このような方針転換に旧尾張藩士たちは同調できず、1869(明治2)年7月の官制改革では慶勝をはじめ家臣のほとんどが新政府の要職から疎外された。この理由として考えられるのは、尾張藩が明治維新に貢献したとはいえ幕府の親藩であったためでもあるが、宝暦年間(1753〜55)に行なわれた木曽三川治水工事に薩摩藩士が動員され多数の犠牲者を出したことや、1864年の長州征伐軍の総督が慶勝であり、戦火を交えることなく終わらせたとはいえ藩主父子を剃髪させたことなどから、薩摩・長州両藩の尾張藩に対する感情は決して良いものではなかったこともあげられよう。また、慶勝は最後の将軍慶喜の従兄弟に当たり、佐幕派として会津戦争で最後まで新政府に徹底抗戦した松平容保などが実の弟であったことも影響していたであろう(5)

 1868年9月、慶応から明治へと改元され、翌年6月には新政府は版籍奉還を実施した。これは従来各藩が支配していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還させ、各藩への政府の統制を強化しようというものであった。これに即して旧藩主は爵位を授けられ、改めて知藩事に任命された。尾張藩は名古屋藩と改称され、慶勝が知藩事となった。

また、版籍奉還にあわせて封建的身分制度の整理を行ない、大名・公家を華族、一般武士を士族、農工商の一般庶民を平民とした。翌1870年には平民にも苗字の使用を許し、さらに1871年8月にはえた・ひにん等の賎民身分も廃止して華族・士族以外はすべて平民に編入した。1873年には身分に関係なく満20歳以上の男子を兵役につかせることにした。こうして平民と華族・士族の結婚、職業・居住の自由も認められ、形式的には四民平等になったが、実際には華族・士族には家禄支給の特権が残されていた。

ところが、政府は財政状況が厳しく今までどおりの家禄を支給することができなかった。そこで、家禄の削減を行ない、旧藩主には藩実収の10分の1を、旧藩士のうち3000石以下の者には米295俵以下を、100石以下の者には米50俵を与えることにした(6)。この結果、藩主の生活は楽になったものの、下級士族の生活は非常に苦しくなった。そこで、各藩とも下級士族の生活を救済する措置を行なう必要に迫られることとなった。

 1871年、廃藩置県が行なわれ、藩は全廃されることとなった。これにより近世の幕藩体制は名実とともに廃止され、名古屋藩は名古屋県(のち愛知県)となり、初代県令には慶勝が任命された。こうして中央集権的政治体制が確立されたのであるが、同時にこれまで各藩が華族・士族に支給してきた家禄も明治政府が肩代わりすることとなり、政府にとってそれは財政上の大きな負担となった。

 そこで政府は1876年に、華族・士族の家禄を全廃するかわりに旧禄の種類や石高に応じた額面の金禄公債証書を与えた。いわゆる秩禄処分である。これにより華族や上級士族はその利子によって産をなすことができたが、中級・下級士族は低額の公債しかもらえなかったので、その日の生活にも追われるような苦境に立たされて没落していくこととなった。

 このように明治政府が士族の特権を剥奪する方向に動いたのは、当時全人口3329万8286人のうちわずか5.7%しか占めていなかった華族・士族に対して、政府が支給していた家禄が国家財政の30%以上を占め、大きな負担となっていたことがあげられる(表4)。これに対して、平民は全人口の93.4%を占めていた。したがって、近代化を推進するためにこうした不公平な状態を是正するのは当然のことであったともいえよう。

img1.gif

※平野義太郎1934『日本資本主義社会の機構』岩波書店より作成。

 

また、江戸時代までは武士は主君と主従関係のもとに御恩と奉公の契約関係を結び、家禄を支給される代わりに軍事動員に応じていたが、明治維新後は四民平等によって主君との主従関係が否定されるとともに、徴兵制が導入され国民皆兵の原則が確立されたことから、江戸時代以前のように武士身分に属するものだけが軍事を担うあり方は否定され、士族に家禄を支給する根拠が喪失したこともあげられている(8)。秩禄処分により、士族の特権は完全に剥奪され、生活に困窮する士族の不満は頂点に達することになった。

 

3-2 尾張藩における帰田法

藩制改革要綱の公布と尾張藩

 前述のような明治維新後の混乱に尾張藩は手をこまねいていたわけではなく、さまざまな方法で生活に困窮した士族たちを救済しようとした。ここでは、維新後に尾張藩が困窮士族対策としてどのような方策を講じたのか、廃藩置県以前における士族授産の方策として注目すべきものである1870(明治3)年に公布された「帰田法」を例に見ていきたい。

幕府の大政奉還と、それに続く各藩の版籍奉還や、明治新政府による一連の藩制改革要綱の公布は、各藩に大きな衝撃を与えた。明治新政府による藩制改革の重点は、① それまで諸藩間にあった複雑な家格の区別を廃止し、石高に応じて大・中・小の3種類に分類したこと。② 実収石高のうち知藩事の家禄・軍事費・藩庁費、士卒俸禄の割合をそれぞれ定めたこと。③ 一門から平士までの階層制を廃止し、一様に士族・卒族と称したこと。④ 藩治職制・財政経済・軍制各般の模様を上申させたこと。⑤ 藩士禄制の改革を行ない大幅な削減をするとともに俸禄はすべて米の給与としたことなどにあるといわれている(7)

 尾張藩は日本有数の大藩に属していたが、他の大藩と同様に江戸末期以降その財政は窮乏を告げていた。さらに幕末維新の動乱によって藩財政は疲弊の極みに達しており、明治新政府による藩制改革の指令を待つまでもなく、各藩内で禄制の改革を行なう必要があった。そこで尾張藩では、藩制改革要綱の公布された1869年11月にはいち早くこれまで禄高3000石以上のものは10分の1に減じ、それ以下の者は295俵をもって最上の禄とする「損上益下」の方針に基づく禄制改革の方針をいち早く家臣団に発表している(8)

 新政府による藩制改革要綱では知藩事は藩高の10分の1を家禄とし、その残高の10分の1を陸海軍費に充て、その残額を藩庁費および士卒の家禄に充当するよう指令していたが、最下級の士族の家禄まで一律に10分の1になってしまうため、このことに対しては、尾張藩内部では相当苦悩していたようである。そこで、尾張藩では藩の財政状態と政府の指令と藩士の窮迫とを併せ考えて、藩士に対する何らかの救済措置を講じる必要に迫られたのである。そこで尾張藩が1870年11月に諸藩に先んじて整備したのが「帰田法」であった。

 

帰田法と均禄法

帰田法とは藩内の士族を、士族身分のまま藩内各地の適当な土地に分散帰農させるというものであり、尾張藩だけでなく他の諸藩でも同様の措置が行なわれた。

帰田出願者には10ヶ年をもって成功期間と仮定して、そのうち7ヶ年間は従来の禄を1石あたり8両の相場で換算した一時金を交付し、残りの3ヶ年間は別途手当てとして、従来の禄高いかんにかかわらず、17石5斗の換算額420両を支給した。帰田者に対しては最初の5ヶ年間は1日1人5合ずつの割合で毎月6人扶持を与える計画であった(9)。つまり、別途手当てを含めた一時金を支給することによって土地の購入・移住や昨日の準備・計画などの諸経費に充当させるとともに、最初の5ヶ年間は扶助米を支給してその生活を保障し、10ヶ年のうちに士族の帰農を成功させ、しかもその間は士族身分のままにすることによって、彼らの体面を保持させていこうとする仕組みである。

 帰田法の適用を望まないものには「均禄法」が適用された。これは、従来の石高いかんにかかわらず一律に50俵(17石5斗)を支給するというものである。士族が帰田法か均禄法のいずれを選択するかは、各自の自由とされた。

帰田法の失敗

ところが、この帰田法は困窮士族救済のための、整備された形式であったが、その実施に際しては三つの問題点に直面した。

第一に、帰田法と均禄法のいずれを選択するかは士族の自由とされたため、帰田法を選択するほうが士族にとってかなり有利な条件であったにもかかわらず、なお従来の生活に甘んじていたいという者が多かったためあえて帰農を志願する者は少なく、また下級士族の場合、帰田法を志願するよりも均禄法を適用されていたほうが上級士族よりも打撃が少ないという計算から、帰田法を避けて均禄法の適用を望む傾向が強かった。

第二に、仮に帰田法を志願したとしても、これらの士族に土地が与えられるかどうかの不安、つまり帰農すべき土地選定の困難さの問題があった。そこで藩当局では帰田法の公布とともに士族に対して田地の自由売買を許可したが、開墾に割り当てるべき適当な土地は領内に少なく、わずかに春日井郡田楽村字定納山に約50町歩の土地を帰田士族に割り当てることができたのみであり、他の大部分は自力による土地獲得を待つ以外になかった。このため実際に帰田法を出願した士族は、名古屋藩士族2520戸(1870年調べ)に対してわずか370人余にすぎなかった。これは全体の15%程度であり、卒族を加えた総数8650戸から比べるとさらに小さい比率であった(10)

第三に、帰田法の実施に当たっては、その資金の調達の困難さが最大の障害であった。帰田法適用者には、従来の石高に応じた一時金また別途手当てを支給する計画であったが、このための資金の調達は、窮乏した藩の財政ではほとんど不可能であった。したがって、御用達の商家や農民に御用金の下命をする以外になく、嘆願して資金の調達を図るとともに、藩庁保有の凶荒救済基金などの各種官金によって当座をしのいだ。しかし、それも帰田出願者に額面どおりに行き渡ることはなく、支給額の減額などをしなければならなかった。

 ところが、1871(明治4)年7月になると、新政府は廃藩置県を宣言して中央集権化を断行するとともにそれまで諸藩で個々に行なわれていた禄制改革・士族授産の方法の統一整理に乗り出したため、名古屋藩独自で帰田法を実施継続することが不可能となった。このため帰田法は何の効果を表さないままに、翌1872年2月限りで停止を命じられ、まったく中途半端のまま立ち消えとなってしまった。

 こののち、1876年には秩禄処分によって士族たちへの家禄は全廃され、もともと生活に困窮していた中下級士族たちの生活はさらに困難を増した。そこで、旧尾張藩主の徳川慶勝は1877年北海道に農場を開墾することを志し、ここに困窮士族の授産を求めようとした。

北海道に移住した士族の中には、かつて帰田法の適用を受けていた者も含まれており、徳川慶勝が北海道の開拓を志向するに当たっては、失敗した帰田法の北方的拡大、つまり北海道開拓によって復活させようとしていたと考えていたとみることもできるのである。

 

3-3 移住地の調査と移住人の募集

移住地の調査

 明治維新後の士族の生活は困窮の度合いを増しており、1876年の秩禄処分の実施がそれに拍車をかけた。このころ全国各地で1874年の佐賀の乱にはじまり、1876年の神風連の乱・秋月の乱・萩の乱、1877年の西南戦争など不平士族による反乱が相次いでおり、士族問題が大きな社会問題となっていた。旧名古屋藩士族も例外ではなく、秩禄処分により大きな打撃を受け、士族授産の実施が大きな課題となっていた。そこで1877(明治10)年、旧尾張藩主徳川慶勝は旧藩士を北海道に移住し、そこで農業に従事させることによって士族授産を行なうことを決意した。

 そこで1877年に慶勝は、5万円を出資して名古屋に第11国立銀行を設立し、その利子の一部をもって、開墾事業に必要な資金に充当することとした。

慶勝は、金鉄組の主要メンバーであった吉田知行・角田弘業・片桐助作の3名を北海道に派遣して移住適地の調査に当たらせた。調査は1877年7月から約3ヶ月にわたって行なわれた。

1877年7月27日、吉田らは東京の徳川邸を出発し、船で函館に向かった。当時開拓使函館支庁には旧尾張藩士の日比野次郎が勤務しており、支庁と七重勧業試験場の協力を取り付け、函館からは支庁の技師らの測量に随行する形で調査に入ることとなった。一行は8月4日より江差・七飯・大野・知内など函館近郊を調査し、のちに彼らが移住することになる遊楽部に到着したのは9月25日の朝であった。遊楽部に滞在したのは1日のみで、翌26日からは長万部・岩内・余市・小樽・石狩と泊まって10月4日に札幌に到着し、白石藩士が移住している白石村などを視察した。10月7日からは千歳・白老・室蘭を経て、11日には伊達で伊達家移住の実態を視察し、室蘭から船で森に渡り、函館に戻ったのは10月16日であった(11)

 

徳川慶勝

※『八雲町史』より転載

 

函館に残った片桐をのぞく2人は、10月25日に汽船で東京に帰り、函館支庁や七飯勧業試験場の勧めもあって、函館から近く経費の多くかからない胆振国山越内村字遊楽部(12)を最適と判断し、「開拓使支庁管内胆振国山越郡山越内村字遊楽部実況概略」(以下、「実況概略」と略す)という報告書を慶勝に提出した。この遊楽部こそが、のちの八雲町である。函館に残った片桐は開拓使函館支庁に臨時職員として採用され、家屋建築用材の手配など、移住の準備を行なった。吉田らが作成した実況概略は、以下のとおりである。

 

「開拓使支庁管内胆振国山越郡山越内村字遊楽部実況概略」(1877年、全文)

 開拓使支庁管内胆振国山越郡山越内村字遊楽部実況概略

一、   函館港ヲ距ル西北十九里森港ヲ距ルコト百八里、室蘭港ヲ距ルコト東北海陸合セテ二十一里札幌ヲ距ルコト西南海陸合セテ五十五里山越内本郷ヲ距ルコト西一里二十丁支郷黒岩ヲ距ルコト南三里同郡長万部村ヲ距ルコト南八里後志国潮路村ヲ距ルコト東南十七里七重村峠下村ヲ距ルコト東南十四五里

一、   寒暑ノ点度詳ニスル能ハスト雖モ峠下村七重村ニ同シト云ハハ函館ニ比スレバ寒威少シク烈シカラン但シ峠下、七重ト雖米穀、野菜等十分ニ熟スルノ地ナレハ寒気ノ為メニ妨害ヲ為スナキヲ知ルヘシ

一、   地形ハ東北ニ海アリ且ツ東ニ当テ山越内ノ山連綿海浜へ張出シ加之原野中立樹一群ツツ風除ノ姿ヲナシタレハ山背(ヤマセ)(東ヨリ来ル海風ノ名)ノ風害少ナカルヘシ其他田畑養蚕等ニ害アルヲ見聞セス現今開墾ノ実況ヲミルニ雑穀、野菜ノ繁植他ニ比類ナシ支庁の勧業課七重試験場在勤地質家林忠良ノ説ニ当管内第一ノ地ナリト

一、   村用係長谷川仲蔵十六ケ年前ニ聞キタル畑ナリトテ大豆ヲ作レハ即今ニ至ル迄培養セスト雖モ繁植スルコト驚クニ堪ヘタリ

一、   万延元年野田生(遊楽部ヲ隔ツルコト三里)ニテ水田ヲ試ミタルニ二三年目ニ至リテ可ナリ実リタリト云フ今ヲ去ルコト十九年前ニシテ気候大ニ変化シタレハ無論熟スルナラント云フ

一、   遊楽府川、砂蘭部川ハ少シク欠ケアレトモ水害ト云フ程ノ事見聞セス

一、   河水低ケレハ堤防ニ及ハス

一、   河舟ナレハ遊楽府川ヲ遡ル二里ニ及フヘシ海岸ハ船著宜シカラスト雖モ百石積格好ノ船ハ川筋へ入ルヲ得ヘシ荷物陸揚差支ナシ平常漁船(二三十石ヲ積ム)ニテ往復差支ナシ

一、   運送ハ森港迄八里船廻シ(陸路トテ峻路ナシ)森港ヨリ函館へ十一里平坦ニシテ駄送時宜ニヨリテ函館へ便船アリ新室蘭港ヘハ森ヨリ毎日便船アリ唯掛リ場ナキヲ難トス

一、   河面水面ト地面トノ高低詳ニスルヲ得スト雖モ高キコト遙カナリ河水ト雖モ丈余ノ差アルヘシ

一、   木根、石楽ナシ器械ヲ以テ荒起スルモ差支ナシト云フ是モ林忠良ノ説ナリ

一、   海浜ヨリ二里程奥ルベシペ川ノ辺ニ工藤喜三郎ナル者一戸アリ農業ノ一途ニテ数年来生産ヲ為シタレハ風害寒威堆雪ノ為メ防ゲラルルナキ推知スヘシ鷲ノ巣ニモ二戸アリ是モ同様ナリ

一、   当地ニ於テ是マテ水田ヲ試ミタルコトナシ然雖札幌地方ノ寒気トテモ害ナク且ツ同国有珠郡及前条野田生ノコトヲ以テ彼是比較スレハ掛念ナシト云フモ可ナリ

一、   用材ハ桂、椴松、楢等年々ニ伐リ出シ諸方へ輸出スレハ家屋建築ノ用材トシテ差支ナシ

一、   著手ノ上事業盛大ニ至レハ五百万坪以上ニ及フヘシ

一、   立木ハハンノ木、栃、楢、柳、白楊、栗、桑、胡桃ノ類

一、   立草ハ蓬、薄、銀水引、藤袴、女郎花、蕨、独活、牛蒡、三ツ葉、山葡萄ノ類

一、   戸数十戸程、土人三十戸程

一、   産物鯡、鰯、鮭、昆布、鱒、用材

(八雲史料163「遊楽部実況概略」より)

 

 この「実況概略」は遊楽部の地勢・気候・作物・水産物などあらゆる面について19項目に分けて考察したものであるが、実際には、遊楽部は特殊気候に属しており「実況概略」の内容に比べてはるかに厳しい気候条件であった。さらに土壌も火山灰性であり、農業には不適な土地であった(13)。また水田に期待しすぎており、熊・イナゴの害や土壌にも言及せず、夏期のヤマセや濃霧についても甘く見ているなど、ずさんな点が多いものであった。

吉田らが遊楽部で現地調査をしたのは9月25日の1日のみであり、いくら士族で土地調査などに不慣れであるとはいえ、翌年から永住するにしては調査が簡単すぎるといえるであろう。もっとも、吉田らの報告書や片桐の日誌などを見れば、その他の土地の記述に比べて遊楽部の記述のみ詳しいことから、最初からこの地を勧められていて移住先はこの地にほぼ決定的であったのではないかと思われる。ともかくも、このような報告によって、慶勝は開墾事業の有望なことを認め、遊楽部を移住地と決定したのであった。

では、なぜそのような土地を函館支庁は勧めたのであろうか。これには理由があった。1877年当時においては、道南地方で本格的な開拓がまだ行なわれておらず、かつ広大な平地が残されていたのはすでに遊楽部しかなかったのである。これ以北の長万部付近は湿地帯であり、現在でも人家が少なく遊楽部以上に農耕不適地である。長万部から北に行けば断崖絶壁が続き現在でも難所といわれる礼文華海岸に行き当たるし、礼文華海岸を越えれば平地はあるものの、そこは当時すでに伊達家による開拓が行なわれていた。遊楽部は天候を別にすれば風光明媚な景観を擁しており、管内第一の地と考えられたのも無理からぬことであったといえよう。また、吉田らが視察した時期も秋であり、低温と濃霧に悩まされる夏期に比べて晴れることの多い時期であったのもその理由であろう。

 

御下渡願の提出と徳川家開墾試験場條例の制定

 徳川家では「実況概略」の提出を受けてさっそく遊楽部の地を開墾地と定め、直ちに北海道開拓使長官黒田清隆に対し、開拓使の所管する土地の払い下げを受けるべく願を提出した。

当初、徳川慶勝は100万坪の土地の払い下げを願い出た。しかし、開拓使がこの申し出を許可するまでには少々紆余曲折があった。というのも、1872年に開拓使が制定していた「北海道地所規則」では、土地の払い下げは1人10万坪までに限るとされており(14)、1人で100万坪の土地の払い下げを願い出た例はそれまでなかったからである。しかし、北海道開拓は遅々として進まない状況であり、北海道開拓を進めたい開拓使としては、たとえ地所規則に抵触する申し出であってもこれを許可する必要があった。そこで、開拓使は、慶勝の進めようとする開拓事業の計画・資本金額・成功の見込みなどを説明するよう要請した。以下は、慶勝が提出した払い下げ願いに対して、開拓使の考査係が書記官に対して伺いを立てている史料である。

 

「徳川慶勝北海道地所拂下ノ義ニ付見込」(全文)

 徳川慶勝北海道地所拂下ノ義ニ付見込

 舊名護屋(ママ)藩知事徳川慶勝旧藩士族移住ノ為北海道地所拂下ノ義ニ付函館支庁御来斡ノ趣審按仕候處一名ニテ百萬坪拂下ノ義地所規則ニ抵觸致候得共同人願ノ義ハ尋常一般ノモノト其事實異ニシテ全ク一己ノ私利ヲ富マンカ為ニ非ラス其旧臣ノ為ニ営業ノ基本ヲ立テ國家ノ益ヲ謀ル譯ニ可有之且廣漠ノ土地ヲ開キ戸口ヲ繁殖セシムル等悉ク官ノ下手ヲ待テ其成功ヲ期スヘキニ非ラサレハ今般ノ事ノ如キハ本使ニ於テモ望マシキ事ニ有之十分保護ヲ被加其志望ヲ成就セシメ候ハヾ本使開拓ノ事業ニ於テ其稗補不堪義ニ可有之ニ付常法ニ拘ハラス特別ノ御處分相成候テ可然義ト奉存候得共最初ニ於テ後来中途廢止等ノ憂無之様條約ヲ確定シ然ル後御許可相成度就テハ別紙願人並函館支庁見込モ相當ノ事ニ有之候得共萬一中途廢止等ノ義有之候テハ本人ノ損失等ハ勿論本使ノ事業上ニ於テモ其障碍亦不堪義ニ候間今一層厳密ニ渉リ其着手ノ方法施行ノ順序等詳悉具状セシメ函館支庁ニ於テモ其利害得失等ヲ審覈シテ之ヲ取捨斟酌シ夫々遵守セシムヘキ條規ヲ設ケ双方確約取結相成候方可然哉仍テ尚調査ヲ要スヘキ見込ノ件々概略左ニ開列シ供御参考候也

 

 本人ヘ具状セシムヘキ件々

一、   資本金額

一、   授産方法

一、   着手規程

一、   竣功目途

一、   移住人取締方法

 

支庁ニ於テ調査スヘキ件々

一、   右資本金額ニテ目途事業ノ成否

一、   授産方法ノ得失

一、   官費自費ノ區別

一、   着手ノ規程ヲ愆リ其他最初開申ノ事件ニ違背セル等ノ節処分方法等総テ本人ノ事業ヲ保護スヘキ條件

 十年十二月十四日  

 

(北海道立文書館所蔵文書簿書2668「愛知縣士族遊楽部移住事件書類副本」より)

 ここで開拓使書記官は、慶勝の申し出が地所規則に抵触することを知りながら「特別ノ御處分」をするよう求めている。そのためには何よりも、この事業が成功する見込みがあるのかどうか、具体的に説明させることが必要であった。

 また、この申し出を受けた黒田清隆は岩倉具視に対し、1878年3月付で「尤人民移住ハ開拓ノ基礎ニ有之愛知縣士族今回ノ舉ハ実ニ好都合ニ付相成丈ハ便利ヲ與ヘ候様致度就テハ其順序ヲ經テ願出候ハヾ…」(道立文書館所蔵簿書2668より)と手紙を送っており、慶勝の申し出は国策に沿ったものとして、体裁を整えればすぐに許可する方針であった。

 慶勝はこれに対し、10戸の士族が移住する計画なので1戸当たり10万坪で合計100万坪となり、土地は将来移住者たちのものとなる予定であるために地所規則には違反しないとしている。のちに初年度移住戸数は5戸増えて15戸となったため、払い下げ希望面積は100万坪から150万坪となっている。

 翌1878(明治11)年5月21日、慶勝は再び開拓使に払い下げ願いを提出し、今度は移住計画の詳細を提出することを条件に翌月には許可されている。以下は、慶勝が提出した「御使管轄地ノ内御下渡願」と、開拓使の指摘を受けて1878年6月に制定された、開墾地を運営していく上での基本的な考え方と開墾の進め方を定めた「徳川家開墾試験場條例」の抜粋である。

 

 「御使管轄地ノ内御下渡願」(全文)

 御使管轄地ノ内御下渡願

   愛知縣士族舊名古屋藩士ノ内往々貧困ニ迫リ活計相立兼候者モ有之趣ニ候處故舊ノ情誼傍観ニ忍サル儀ニ付右ノ内有志ノ輩ヘ些少資金ヲ貸與シ北海道ヘ移住就産営業為致度付テハ御管下膽振国山越郡山越内村字有楽部ニ於テ草?地立樹ヲ併セ別紙略圖朱囲之通百五拾萬坪無代價御渡被下度元来士族受産之儀ハ政府ニ於テ一般ノ御所置モ可有之候得共方今費途御多端ノ折柄ニ付聊家計ヲ節シ右ノ事業ヲ起シ涓埃ノ報効ヲ圖リ故舊ノ情誼ニ酬ヒ申度素志ニ候条何卒御成規ニ抱ハラス特殊ノ御詮議ヲ以テ願意御許可被下度将施設ノ方法着手ノ順序等詳密ノ儀ハ追々相伺申候条至急何分ノ御指揮被下度此段奉願候也

 

    第六大區七小區本所長岡町六十九番地

 

    東京府華族従一位 徳川慶勝 印

 

  明治十一年五月二十一日

 

    開拓使長官 黒田清隆殿

 

<以下、開拓使による朱書>

 

 願之趣特別ノ詮議ヲ以聞届候条左之通可相心得事

一、  移住ノ方法着手ノ順序詳細取調更ニ伺出ヘシ

一、  地所ノ儀ハ當今仮リニ可相渡候条受取方當使函館支庁ヘ申出ヘシ尤移住ノ輩開墾成業ノ後ハ成規ニ據リ地券ヲ其本人ニ付與スヘシ

 

  明治十一年六月十三日 印

(八雲史料163「北海道移住ニ関スル書」より)

 

 「徳川家開墾試験場條例」(1878年6月制定、目次のみ)

 徳川家開墾試験場條例

 目次

第一章         徳川家ニテ舊藩士族ノ有志ヲ北海道ヘ移住セシムル旨ヲ明ニス

第二章        徳川家ト移住人トノ契約及遵守スヘキ條規等ヲ明ニス

第三章         委員ノ権限職務給料旅費等ノ事ヲ明ニス

第四章         授産營業ノ目的米塩賣上ケ製有輸出等ノ事ヲ明ニス

第五章         渡航及家物運送等之順序ヲ明ニス

第六章         家屋耕地農具渡シ方飯米菜料貸給與等ノ事ヲ明ニス

第七章         経費支出ノ方及貸與金返納ニ規程等ヲ明ニス

第八章         金殻蓄積ノ規程ヲ明ニス

第九章         経費渡シ方及勘定正算ノ規程ヲ明ニス

八雲史料163「北海道移住ニ関スル書」より)

 

 この徳川家開墾試験場條例は全9章85款からなる長大なもので、開墾の目的・開墾地の組織(委員制度等)・資金計画等を定めたものであるが、とりわけ家屋の建築費・農機具購入費などの開墾に必要な経費や、米菜料等を徳川家から貸し付けし、それを長期年賦で返済させた後、移民たちは土地を取得して経済的に独立させるという計画に重点がおかれたものであり、北海道開拓事業を何としても成功させようとする慶勝の意気込みが感じられる。

 当時、樺太千島交換条約によってすでにロシア南下の緊張からは解放されていたが、開拓自体は遅々として進んでいない状況であった。ここで慶勝が申し出た「民間資本による団体移住」はこれまでの官費主体の開拓政策に対する新たな移住形態であり、開拓使としても北海道開拓の停滞状況を打開する上では願ってもないことであった。そして開拓使はこれ以後こうした団体への大規模な土地の下付を認める政策に転換することとなる。かくしてこれ以後旧山口藩主毛利元徳による余市郡の開拓や旧佐賀藩主鍋島直大による石狩郡の開拓、開進会社などの結社団体移住などが相次いでいるが、慶勝による遊楽部への旧藩士移住はその先駆として、北海道開拓の歴史上大きな意味を持つものであるといえよう。

 

移住人の募集と先発隊の出発

移住に当たっては、徳川家ではその目的として、徳川家開墾試験場條例第一章第一款に「無産ノ士族日ニ月ニ窮迫ニ迫ルモノ多キニ依リ從一位公深ク御哀憐ナサレラレ故ノ情誼傍観ニ忍サルトノ御思慮ニ出ツ」と記してあるように、あくまでも生活に困窮した士族を自立させることがその目的であった。

1878(明治11)年1月24日、徳川慶勝は「北海道事業担任」を新設して、家扶の吉田知行を担任とし、徳川家と相談しながら、移住の規模・方法・土地払い下げの申請・経費の確保・家屋の設計・移住者の募集・移住地経営の基本事項などの具体的遂行に当たらせることにした。

 吉田は1878年2月、名古屋で移住人の募集を開始したが、当時は北海道に関する認識はいまだ「羆が棲み寒気酷烈な未開地」といったものであり、4月に入り、ようやく愛知郡和合村(現在の愛知郡東郷町和合)に和合書院という私塾を開いていた海部昻蔵の生徒4人が移住者に同行したいと申し出たが、家族持ちの中からは依然として応募者は出なかった。このころ慶勝はすでに開拓使に土地払い下げ願いを提出し、具体的な移住計画をまとめてあらためて提出するように求められていたが、応募者がいない状態では土地の払い下げ自体の目途が立たない状況であった。

そこで慶勝は移住地調査メンバーの角田弘業の弟に当たる角田弟彦に、率先して移住するように内諭した。角田弟彦を指名したのは、彼が歌人として士族たちの間で名が通っていた存在であったことや、数少ないかつて帰田法の適用を受けた人物であったため(15)、一般の士族よりは多少なりとも農業の経験があったためである。

慶勝の内諭とあっては断りきれず、弟彦は移住を決意した。それからしだいに応募者が増え、7月までにようやく初年度の移住計画(家持15戸72名および単身者10名)がまとまった。こうして初年度の移住者募集にめどがついたので、慶勝は開拓使に遊楽部の土地150万坪の無償下付を願い出て許可された。

徳川家ではこの土地を初めの2年間は「徳川家開墾試験場」とし、授産のめどの立つ3年目から「開墾地」とする計画であった。徳川家は詳細な移住計画書である「徳川家開墾試験場條例」を開拓使に提出し、1878年6月13日に開拓使は土地下付を決定した。

 これにあわせ、移住者側でも北海道移住に対する強い決意を表明する「郷約」や「内約書」「誓約書」を連署して徳川家に提出している。

 

 「郷約」(18785月、抜粋、一部略)

  郷約

 

従一位公至厚ノ御思慮ヨリ吾輩北海道ニ移住開墾試験ニ従事スル上ハ毫末モ御主意ニ違背セス奮発勉強終始一貫上ハ皇國ノ公益ヲ圖リ従一位公殖民御方法ノ端緒ヲ開キ下ハ諸有志ノ目的トナリ自家ノ産業ヲ起シ家名ヲ無窮ニ保存シ頃刻モ御殊遇ニ報酬スル所以ノ道ヲ忘却スヘカラス

一、   移住ノ上ハ相互ニ?結北海道ヲ墳墓ノ地ト定メ顧後ノ念慮ヲ絶ツヘシ

一、   移住人ノ内學力アル人ヲ依頼シ日並ヲ定メ講席ヲ開キ人道ヲ研窮スヘシ

一、   學校ヲ起シ子弟ヲ教育スルナカルヘカラスト雖モ移住ノ初未タ此挙ニ及フノ力ナケレハ學力アル者ニ依頼シ教導ヲ緩カセニスヘカラス

一、   移住人一同父子兄弟ノ如ク相親睦シ御主意ニ違背スル等ノ事アルニ當テハ相互ニ忠告シ艱難疾病相救助シ一毫ノ隔意アルヘカラス

一、   移住地ニ於テ熱田神宮ノ分社ヲ建築シ敬公ノ神霊ヲ合祀シ移住人ノ氏神トシ協力春秋ノ祭典ヲナシ敬神報本ノ道ヲ守ルヘシ

一、   地券状ヲ受領シ獨立自主ノ民トナルトモ従前ノ無産困窮ノ時ヲ忘レス節倹ヲ旨トシ尚條例郷約ヲ確守シ恣ニ他ノ工業商法ヲナシ或ハ轉籍移住等為スヘカラス

 

「内約書」(18785月、一部)

 内約書

今般 従一位公至厚之御思慮ヨリ舊藩士御救助之為北海道之内草?地御願下ケ有志之者御移御試験ニ付而ハ私共儀右人員ニ御差加御願候上ハ御指揮次第無異議家族携帯移住可仕候依テ此段御約定申上候也

但本年病気等不得止事故多ク移住方延期ト相願御座候ハ醫師容体書ト確證ヲ以テ申出候間此段兼テ申上添候也

 

 「誓約書」(18789月、一部)

  誓約書

 今般 北海道ヘ移住之儀相願候處御許容被成下難有仕合奉存候然ル上ハ兼テ拝見御試験御條例之通ニテ異議無御座該地ヲ以テ墳墓之地ト定メ萬端委員之裁許ニ随ヒ銘心骨力ノアラン限ヲ盡シ御主意ニ違背仕間敷候仍テ誓約仕候處如件

(いずれも八雲史料183「北地移住人誓約書綴込」より)

 

 この3つの史料を見ていると、いずれも困窮士族救済のための北海道移住を講じてくれた従一位公(徳川慶勝)に対しては深い感謝の念が感じられるが、1878年5月の時点では移住者がようやく決定したばかりの段階であり、移住予定者は北海道移住に対してはかなり躊躇していたようで、初年度の移住の延期を願い出ている(「内約書」)。しかし、徳川家による北海道開拓計画はこうした声を聞くことなく進められ、9月の誓約書の提出に至った。

 名古屋および東京で移住者の募集や土地払い下げ願の提出、移住計画書の制定が行なわれていた間、移住地探査を終えてただ1人函館に残っていた片桐助作は開拓使函館支庁に臨時採用され、当時函館支庁に勤務していた旧尾張藩士吉田義方や日比野次郎と協力して、士族移民を迎え入れるべく準備を行なうこととなった。

 1877年11月初頭には、すでに移住地は遊楽部と決定していたので、片桐はさっそく建築用木材の見積もりを始めた。翌1878年初めには、大工と移住者用家屋建築の打ち合わせを行なっている。片桐はこのほかにも函館の新聞紙や物価表を頻繁に東京の徳川家に送ったり、七重勧業試験場の養蚕場を見学し、徳川家開墾試験場でも養蚕を行なうための勉強をしたりするなど、移住に向けた準備は、受け入れ側である北海道でも着々と進められていた(16)

また、道路の開削や家屋の建築など、移住者の受け入れ準備のため、他の移住者にさきがけて、移住の最高責任者である吉田知行ほか数名が移住先発隊として編成された。先発隊一行は1878年7月1日に品川を出港し、しばらく函館で滞在したのち、5人が陸路で遊楽部入りしたのは7月21日の朝であった。当時はまだ鉄道は開通しておらず、道らしい道もまだ完成しておらず、森から遊楽部までの約32キロは自分の足か馬の背にまたがり、先住民族であるアイヌの人びとが利用した小道をヒグマにおびえながら進んだという。

現地ではまず開拓使から150万坪の割渡地を受け取り、翌日から七重勧業試験場の測量係が道路や区間などの測量を開始した。しかし、立ち木や雑草が繁茂していたため測量は難航し、アイヌの人々の協力も得ながら草刈りを行なったという。

一方、移住者の荷物や食料は船で運ばれ、吉田知行も7月29日に船で遊楽部入りした。一行がはじめて鍬入れを行なったのは8月1日であり、板蔵を建てるためであった。なお、この8月1日という日は、徳川家康が1603年に征夷大将軍に就任してはじめて江戸城に入場した日であり、江戸時代には8月1日を「八朔」と呼んで特別に祝う習慣があった(17)

翌8月2日には大工が到着し、移住者用家屋の建築が急ピッチで行なわれた。8月5日ごろには七重勧業試験場からも応援が来て、草原も次第に畑に変わり、9月20日に最初の家族ぐるみ移住者として角田弟彦一家らが入植した。10月初めごろになってようやく初年度移住者15戸分の家屋15棟が完成し、最初の移住者である15戸と単身者10名が現地に到着した。これが尾張徳川家による北海道への組織的団体移住のはじまりであった。

  

        開拓移住者上陸第一歩の地(2点とも筆者撮影)

 

初年度移住者の特徴

 ところで、徳川家開墾試験場には1878年から1896年までの間に、途中で退場した者も含めて合計78戸330余人・単身移住者29人・幼年移住者24人の約380人の士族が移住しているが、このうち初年度に移住した士族は、これ以降に移住した士族に比べて2つの若干異なった特徴があった

 第一に、遊楽部に移住した士族たちが秩禄処分実施前に受け取っていた家禄の平均は、それぞれ異なるものの、だいたい17石6斗を支給されていた者が多く、後年に移住した者の中には足軽並みの7石6斗という石高の者もいた。また、農民出身ながら明治維新後に士族株を購入することで士族籍に編入された者もおり、移住者全員が江戸時代に武士だったわけではない。

しかし、初年度移住者の石高はそれ以降の移住者と比べて高めであり、角田弟彦のように二男に当たるため士族ではなく「有禄平民」となっていながらも永世高50石を与えられていた者もいた(18)

 第二に、初年度移住者の中には、尾張徳川家が1869年に実施した帰田法の適用を受け、各地に帰農していた者も多く、初年度の移住には加わらなかったものの移住地探査や移住者受け入れ作業に尽力した片桐助作や、のちに開墾地委員として移住した海部昻蔵もそうであった。これは、ほとんどの士族に農業経験がなかったため、帰田法を適用されており多少なりとも農業経験のある者を移住させて、農業指導を行なわせる意図もあったものと思われる。

 なお、角田弟彦が帰田法を適用されて愛知郡常盤村(現在の名古屋市昭和区御器所付近)に移住してから遊楽部に移住するまでの間に書かれた『北山日記』(八雲史料3560)によれば、「知己」としてのちの遊楽部移住者のメンバーが散見され、互いに助け合いながら慣れない農業に精を出していたようである。とりわけ吉田知行・片桐助作・海部昻蔵とは月に三度は集会するほど親しい関係にあった。

 帰農経験のない士族もいたが、彼らも多くは帰農経験者と縁戚関係にあったり、あるいは私塾の生徒であったりしており、初年度移住者の多くは互いに顔見知りのようであった。これは名古屋とまったく気候風土の異なる地に移住するため、少しでも移住者同士の団結心を高めるためであった。

 

<註>

(1)      名古屋市役所1915、109-110頁。

(2)      尾張徳川家と紀伊徳川家では、尾張家の方が家格が上とされており、7代将軍家継亡き後の将軍後継争いでは尾張藩第4代藩主吉通が最有力候補とされていた。しかし、吉通は24歳の若さで急死し、後を継いだ5代藩主五郎太はその翌年に3歳で急死している。このため6代藩主には吉通の弟である継友が就任したが、継友が家康の玄孫に当たるのに対し、吉宗は曾孫であったこと、継友に子供がいなかったこと、吉宗が将軍家継の後見人であったこと、紀伊家の根回しが周到であったことなどから、結局は吉宗が将軍になった。後に継友も急死したが、尾張藩主が3人続けて急死したことは、暗殺を疑わせる原因となり、尾張藩の将軍家に対する不信感を生むこととなった。継友の弟に当たる7代藩主宗春が吉宗に対して対抗心を燃やしていたのは、こうした背景があったためである。

(3)      成瀬家と竹腰家は徳川家康の命により、初代尾張藩主徳川義直の時代より尾張藩御付家老となり、両家ともほぼ同格で、大名並みの禄高を誇っていた。ほぼ同格の御付家老を2人尾張に配置したのは、1人の家老に権力が集中しないように互いに牽制させるという家康の配慮であったが、一方では両家の対立を生むようことにもつながった。幕末になると、成瀬家が尊皇攘夷派に近い立場を取っていたのに対し、竹腰家は佐幕派に近い立場を取っていた。

(4)      横井1984、19頁。

(5)      徳川慶勝の弟には、1858年の不時登城事件のため蟄居させられた慶勝に代わって尾張藩主となった茂徳(のち一橋徳川家に養子入り)、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬がおり、それぞれに有能な人物であり、かつ高須藩(現在の岐阜県海津市)松平家出身であったため「高須四兄弟」と呼ばれていた。四兄弟の中では慶勝以外は幕府寄りの立場であった。

(6)      吉川1944、50頁。

(7)      遠山1951、254-255頁。

(8)      吉川1943、182頁。

(9)      吉川前掲書、185-187頁。

(10)   吉川前掲書、189頁。

(11)   八雲史料

(12)   八雲には1800年から山越内関門が置かれ、蝦夷地と和人地の境界となっていた。また、ここを境に胆振国・渡島国に分かれており、遊楽部は胆振国側であった。終戦後しばらくまで八雲町は胆振支庁管内に属していたが、現在は北隣の長万部町まで渡島支庁管内に変更されている。

(13)   実際、八雲町では現在に至るまで気象条件と土壌の問題で稲作はほとんど行なわれていない。

(14)   北海道立文書館所蔵開拓使文書A4/396「部類抄追録 七 租税 商法 自明治四年至同五年」より。

(15)   八雲史料3560『北山日記』より。また弟彦は1872年に徳川慶勝と義宜から「御一新後国事尽力ニ因リ」50石を分与されている。

(16)   横井1984、30-31頁。

(17)   八雲町では、2005年秋に隣接する熊石町と合併するまでは毎年8月1日を開町記念日として式典を行なっていた。

(18)   旧尾張藩士族の移住直前の禄高については、愛知県公文書館所蔵旧愛知県文化会館移管文書「旧名古屋士族別簿」および徳川林政史研究所所蔵旧蓬左文庫所蔵史料「尾参士族名簿」で確認できる。

 

<目次に戻る>   <第2章へ>   <第4章へ>

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください