 | 乗船寺 大石田の雪の深さには驚いた。北杜夫も同じ感想を漏らしていることを後で知った(『茂吉晩年』)。彼が大石田の父のもとにはじめてやって来たのは、昭和21年2月半ば、旧制松本高校生だった。この頃絶唱と言われる「最上川逆白波のたつまでに…」の歌が作られた、とその経緯も北杜夫は書いている。 |
乗船寺 乗船寺には釈迦涅槃像が安置されている釈迦堂があり、本堂には本尊阿弥陀如来座像が安置されている。 この日は釈迦涅槃図も掲げられていて、どうぞ、という住職の言葉でカメラに収めた。 |  |
 | 乗船寺の歌碑 住職の親切で、本堂横の窓を開けてもらって茂吉の歌碑を見たが、深い雪の中にわずかに上部が見えるだけだった。この寺には、子規の歌碑、茂吉の墓もあるのだが、いずれも雪の下だった。 |
乗船寺歌碑 これが「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにかるかも」の歌碑。昭和48年2月の建立。住職に教えられたように寺の境内を出、ぐるりと一回りして雪下ろしのためにつけた雪道をたどって、ようやくそばまで行けたのだった。 |  |
 | 「聴禽書屋」 太平洋戦争末期、空襲を逃れて郷里山形県上山の妹の嫁ぎ先に疎開(やがて自宅も病院も昭和20年5月に罹災焼失)したが、戦争は終わり奇遇先の息子たちが復員して来ることになって、昭和21年1月に大石田に移った。大石田でほぼ2年間過ごした二藤部家の離れが、大石田町によって保存されている。右手の建物「大石田町歴史民俗資料館」と廊下でつながっている。 |
「聴禽書屋」一階 大石田町には茂吉の弟子、アララギ歌人の板垣家子夫(かねお)が住んでいて、移住を熱心に勧め、移住後の生活万般の世話を献身的にした。町の旧家二藤部家も家賃も食費も取らずに茂吉を遇した。食糧難の時代だったが、自分たちは代用食を食べても茂吉には白米を食べさせてくれた、と茂吉の長男茂太が、その「計り知れない善意」について記している(「茂吉と大石田」)。 |  |
 | 「聴禽書屋」二階 この離れの周りには樹木が多く、そこでさえずる小鳥の声が孤独の茂吉をなぐさめ、茂吉はこの離れを「聴禽書屋」と呼んだという。夏休みをこの二階で過ごした北杜夫が寮歌を大声で歌って、父茂吉に叱られた話を書いている(『茂吉晩年』)。 |
最上川堤防 大石田大橋からの、最上川の流れと堤防の景観。最上川は古くから舟運の盛んな所で、大石田はその重要な位置を占めていた。一方、しばしば洪水に見舞われた。案内してくれたタクシーの運転手さんも、町全体が冠水したときの話をしてくれた。昭和50年8月の大洪水後、激甚災害対策事業で堤防整備が進められた。 |  |
 | 最上川夕景 かつての川舟役所跡に立ち寄っているうちに日が傾いた。最上川の残照はえもいわれぬ美しさだった。前方の山は大高根山か。橋は大石田大橋。 |
黒滝橋夜景 大石田温泉に泊まった(芭蕉の間だった)が、そこからは大橋の下流に架かる黒滝橋がよく見えた。その橋の照明も深夜には消えた。とおる車もほとんどなくなるらしい。 |  |