このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
![]() | 茂吉生家の通り 齋藤茂吉は明治15年(1882)5月14日、山形県南村山郡金瓶(かなかめ)村(現、上山市金瓶)に生まれた。写真の左手は「茂吉ふるさと会館」、右手土蔵の先が茂吉生家。 |
茂吉生家 入り口に「茂吉の生家」の看板が掲げてある。門柱の表札には「守谷傅右衛門」とある。齋藤茂吉はこの守谷家の三男として生まれた。14歳で上京、郷土出身の医家齋藤紀一の養子となる。 | ![]() |
![]() | 茂吉生家 母屋は改築されたというが、右手の土蔵などに当時の面影をしのぶことができる。 幼い時に、梅の実をひろうにも水遊びをするにも 「しゃくしき しゃくくわう」と、唱えながら遊ぶ友達がいて、それが阿弥陀経の「赤色 赤光」の意味と判ったのは、上京後のことだった、と第一歌集『赤光』の「跋」に記している。 |
史跡 金瓶学校 この建物は明治6年、当時の宝泉寺住職が隠居所として建て、寺子屋として用いられた後に小学校となった。茂吉も、この生家に隣接する金瓶尋常小学校で学んだという。この「金瓶学校」は明治37年、上野尋常小学校の新築で廃止され、以後宝泉寺で保存してきたが、昭和56年に文化遺産として上山市に寄贈された、と上山市教委の案内板がある。 | ![]() |
![]() | 宝泉寺山門 茂吉の生家守谷家に隣接する宝泉寺境内は、茂吉兄弟の格好の遊び場だった、第四十世住職佐原窿応は、茂吉の精神形成に決定的な影響を及ぼしたという。 |
茂吉歌碑 宝泉寺本堂の左手前に、「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり」が刻まれている。茂吉の母の亡くなったのは大正3年5月23日、享年58歳、茂吉は31歳だった。この一首を含む『赤光』の「死にたまふ母」は、絶唱と言われている。歌碑は茂吉没後20年を記念して、昭和48年に建立された。 | ![]() |
![]() | 茂吉の墓 本堂左手奥に墓所がある。茂吉の墓は「茂吉之墓」とだけ彫られ、これは生前茂吉自身の筆になる、という。裏面には、これも生前自分で考え、窿応和尚からもらったという戒名、「赤光院仁譽遊阿暁寂清居士」が刻まれている。茂吉は「赤光」が本当に好きだったのだ、と改めて思う。「赤」や「あかあか」の詠み込まれた歌も多い。 並んで建っている右の墓は窿応和尚。左手の木は茂吉が生前植えたアララギ。 |
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