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寺山修司 『空には本』——三沢



一粒の向日葵(ひまわり)の種まきしのみに荒野をわれの処女 地と呼びき            

          ——寺山修司『空には本』 

寺山修司記念碑

寺山修司文学碑。短歌三首は活字体の浮き彫り。本の上は複葉機、手前に愛犬。(筆者撮影)


 寺山修司が「チエホフ祭」五十首をひっさげて颯爽と登場したのは昭和二十九年、早大に入学した年だった。「短歌研究」新人賞を得たこの作品群は、清新な叙情が注目される一方、有名俳人の句からの大胆な摂取が論議を呼んだ。

青森高校在学中に俳句雑誌「牧羊神」を創刊主宰したほどの早熟の異才は、やがて短歌から離れ、演劇、映画、小説、その他さまざまなジャンルで旺盛な表現活動を展開、四十七歳で世を去った。死後も人気は衰えず、影響力も多方面に及んでいる。見逃せない一例が教材としての短歌だ。

 高校教科書に寺山短歌が登場したのはそう古いことではないが、今や五十数首が延べ百十冊に採録(『高等学校の国語教科書は何を扱っているのか』京都書房)、という人気ぶりだ。教材定番の晶子、啄木、白秋、牧水なども抜いて、全歌人中の二位(一位は斎藤茂吉)には驚く人も多かろう。
 その寺山短歌の代表作「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし…」と「君のため一つの声とわれならむ…」、それに掲出歌「一粒の向日葵…」の三首を刻んだ碑が、三沢市郊外にある(平成元年建立)。松林の中に屹立する巨大なブロンズの歌集、その上の複葉飛行機、手前には寺山の愛犬——、寺山修司の世界を見事に凝縮した碑(制作、粟津潔)だ。
 終戦後の一時期、寺山母子は三沢の寺山義人(修司の伯父)の所に身を寄せた。父は戦病死、母は米軍キャンプに勤めるという家族にとって最悪の時期だった。修司の死後、母ハツは三沢の建碑に協力し、遺品もそっくり市に寄贈した。それを基にして寺山修司記念館が平成九年に開館した。
 文学碑のある松林に隣接する場所だ。柱時計をイメージした建物、野外劇場、趣向を凝らした劇場風展示室など、まさにテラヤマワールドの再現で、これほどユニークな記念館も珍しい。修司の従兄弟、寺山孝四郎氏が館長を務める。             (清水節治・法政大学講師)

「月刊国語教育」2001年9月号


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