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幾年ふるさと 来てみれば 咲く花鳴く鳥 そよぐ風 門辺の小川の ささやきも なれにし昔に かわらねど 荒れたる 我が家に 住む人 絶えてなく ——犬童球渓「故郷の廃家」 |
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人吉市の犬童球渓生家。小川、咲く花、鳴く鳥……歌詞そのままの雰囲気だった(筆者撮影'87・3) |
犬童球渓(いんどうきゅうけい)作詞の「故郷の廃家」「旅愁」は、明治四十年の『中等教育唱歌集』採録以来、教材ということを越えて親しまれてきた。どちらも外国の曲に詞をつけたものだが、曲の発掘、作詞ともに評価され、声楽家で愛唱する人も多いという(講談社文庫『日本の唱歌』上)。中学校音楽教材の定番だった二つの曲も、昭和四十年代で教科書からは姿を消したが、その後も合唱祭などで歌われることも少なくないと聞く。 |
犬童球渓は熊本県人吉市の人、ペンネームの球渓は、郷里の球磨川(くまがわ)にちなむ。農家の二男に生まれ、師範学校を出た後、苦労して東京音楽学校(東京芸術大の前身)を卒業した。明治三十八年、卒業生が一七名という時代だった。 |
その年、音楽(唱歌)を正課に新設した兵庫県柏原(かいばら)中学校に赴任したが、「蛮カラ」気風の強かった丹波の男子生徒たちは、「唱歌」を軟弱なものとして反発、温和な新米教師の授業を妨害、球渓はついに病気理由の辞職願を提出、翌年一月、新潟高等女学校に転任した。ここは女学校でもあり、土地柄もあって、球渓は温かく迎えられ、この地で二年余を過ごし、はるかな故郷への思いをこめて、「故郷の廃家」「旅愁」の作詞をしたといわれる(新潟高女の後身、新潟中央高校に「旅愁」の碑がある)。 |
新潟で結婚、明治四十一年に熊本高女に転任、後に人吉高女に移り昭和十年に退職するまで、三十数年教職にあった。作詞・作曲は二五〇を数える。人吉市はその業績をたたえ、彼の名を冠した音楽祭を毎年開催、人吉城址には「故郷の廃家」にちなむ碑も建った。 |
犬童球渓に惹かれて私が人吉を訪れたのは三月下旬、満開の桜が球磨川に影を落とし、球渓生家の庭も、まさに「咲く花鳴く鳥」の感があった。近くに小川も流れていた。訪れたのは十数年も以前のことだが、現地に問い合わせてみたら、球渓生家は当時のままという。新たに「犬童球渓先生像」も市内に建立されたそうだ。 (清水節治・法政大学講師) |
「月刊国語教育」2002年3月号
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