このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

宇津ノ谷峠——蔦の細道


蔦の細道  「行き行きて駿河の国に至りぬ。宇津の山に至りて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、つた、かへでは茂り、もの心細く……」と、『伊勢物語』に記された宇津ノ谷峠越えの道は、近世の東海道が開かれるまでは京から東国への主要ルートだったそうだが、それが「蔦の細道」として現在も残されている。静岡市からのバスで丸子の宿を越え、宇津ノ谷トンネルの手前で下車、左手から峠への道を登り始めた。写真の正面は「蔦の細道」の道標。蔦の細道
蔦の細道蔦の細道  岡本かの子の『東海道五十三次』に、洋傘で大きなガマをどけながら宇津ノ谷峠を登る描写(道は旧東海道)がある。ガマは平気?だが蛇は苦手だ。津島佑子が、マムシが多いと聞くこの道を、編集者の女性と二人、「恐怖以外味わう暇もな」く越えた(『「伊勢物語」「土佐日記」を旅しよう』)と書いていて、それは大いに気になる。草に覆われた道はいかにも蛇が出そうで、なんとなく気味が悪い。津島佑子にならって、杖にした棒切れで道をたたきながら進んだ。しばらくすると、叢はなくなりちゃんとした道になってほっとした。
宇津ノ谷峠   20分ほどで峠に着いた。在原業平歌碑や案内板があり、木のベンチが置かれていた。宇津ノ谷峠
峠からの眺め峠からの眺め  宇津ノ谷峠から南西方向の眺望。すぐ下でなにやら木の実を採っている人がいた。尋ねたら小梅を収穫しているだという。よく見ると峠のすぐ下まで、梅が植えられていた。
在原業平歌碑  刻まれている歌は、「駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり」、碑陰には「昭和四十四年十月吉日 静岡市立長田西小学校PTA 静岡市宇津谷町内会」、とある。
 少し離れて、「蔦の細道の文学 その一」の案内板があり、この歌の解説と、『伊勢物語』の一節が記されていた。
在原業平歌碑
蔦の細道碑蔦の細道碑  峠から茶畑などを見ながら急な坂道を下ると、木和田川のほとりにも、「蔦の細道」の道標が立っている。
つたの細道公園  川の流れに沿って下ると、休憩所などもある岡部小公園が現れる。高札場風の建造物には、藤原俊成・定家、兼好、長明など、宇津ノ谷峠や蔦の細道ゆかりの歌と解説が記されている。蔦の細道公園
旧街道旧東海道  蔦の細道の古道の代わりに鎌倉幕府が開き、秀吉が小田原攻めに通ったのがこの道。江戸時代には参勤交代の往来に用いられたところから、「大名街道」の別名もあったと言う。
地蔵堂跡  元延命地蔵堂のあった所は復元?工事中だった。手前に「地蔵堂跡」の案内板があり、歌舞伎『蔦紅葉宇津谷峠』の文弥殺しの舞台についての説明がある。延命地蔵尊は現在、宇津ノ谷の慶龍寺に祀られているという。地蔵堂跡
宇津ノ谷集落宇津ノ谷集落  地蔵堂跡からさらに旧東海道を進むと、やがて宇津ノ谷集落が眼下に見えてくる。
宇津ノ谷集落  宇津ノ谷峠の東麓、旧東海道に沿って十数軒の古い家がひっそりと建っている。平日の昼下がり、社会見学らしい中学生数人が通り過ぎた後には、人影もなかった。宇津ノ谷集落
御羽織屋御羽織屋  旧街道沿いの家には、伊勢屋、角屋、東屋などの屋号が掲げられているが、中でも有名なのがこの御羽織屋。屋号の由来は秀吉から拝領の羽織。天正18年(1590)、秀吉は小田原の北条攻めの際にこの家で休息した。その折、当家の主が馬の沓を献上したり、縁起のいい話を言上したところ、秀吉はたいそう喜び、半年後の帰途に羽織を与え、それが家宝として伝わっている。
拝領の羽織  御羽織屋をぐるっと裏に回ると、座敷に秀吉から拝領の羽織(市文化財)の他、多くの家宝が展示されている。老女の説明によると、家康もこの羽織を着用してみ、茶碗を与えたほか、参勤交代の大名たちも「拝観」する者が多かったという。400年の歳月で破損・風化も進んだので、戦後、東京国立博物館に依頼して修復、ガラス入りの展示箱に収めるようになった、という。たった一人の見学者に、老女は丁寧に説明してくれた。拝領の羽織

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