このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
◆旅芸人一座との交流、癒される孤独感—— |
川端康成『伊豆の踊り子』 |
河津川と湯ケ野橋 |
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『伊豆の踊り子』 |
道がつづら折りになって、いよいよ天 城峠に近づいたと思うころ、雨脚が杉の 密林を白く染めながら、すさまじい速さ でふもとから私を追って来た。私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり紺がすりの着物にはかまをはき、学生カ バンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に 出てから四日目のことだった。修善寺温 泉に一夜泊まり、湯ケ島温泉に二夜泊まり、そして朴歯の高下駄で天城を登って 来たのだった。重なり合った山々や原生 林や深い渓谷の秋に見とれながらも、私 は一つの期待に胸をときめかして道を急 いでいるのだった。 |
有名な『伊豆の踊り子』の書き出しだ。主人公の「私」は、その「期待」どおり心ひかれる踊り子の一行と道連れになり、彼等と親しむことで「孤児根性」の欝屈から解放される、というのが物語のあらすじだ。 |
伊豆の踊り子』の教科書への登場は昭和三十年代からで、当初は中・高どちらにも採られていた。昭和四十年代では一五社中五社が採録するほどの人気だった高校でも、その後次第に減って現在の採録は一社だけだし、中学では昭和五十年代からは姿を消した。原作の人気は依然として高いようだから、教材としての人気とズレのある例だろう。 |
教材化に際しては、茶屋のじいさんや行商人等の本筋ではない人物や、共同湯から踊り子が真裸で飛び出して来る場面、さらに旅芸人への蔑視を示す場面などはカットされるのが通例だった。しかしそれらはいずれも作品の本質にかかわる大事な場面だから、割愛しての教材ではどうしても弱くなる。 |
最近の大修館版『国語Ⅰ』では、真裸で飛び出して来る踊り子の場面などが原作どおりの採録となって、それは一歩前進だ。しかし「物乞い旅芸人村に入るべからず」の部分などが、いまだにカットされているのは残念なことだ。原作ではその立札をはじめ登場人物の何げない言葉をとおして、踊り子一行の旅がどれだけ蔑視や偏見に包まれながらだったかが描かれている。そうした背景があってこそ「好奇心もなく軽蔑も含まない」主人公の態度が彼らとの心の通い合いをもたらし、孤独感からも解放してくれたはずである。 |
旅情、淡い恋、青春の哀歓などという「甘い」言葉で語られがちな作品だが、貧困や偏見といった社会的背景や、絶望的な孤独感に陥っていた作者の現実に、もっと注意を払う教材化が望ましいのではないか、と思う。 |
この夏久しぶりに『伊豆の踊り子』の舞台を訪ねた。浄蓮の滝から湯ケ野に到る旧道が「踊子歩道」として整備されていた。旧天城トンネル付近には車も人も見かけたが、車の入って来ない旧道にはまるで人の姿がなかった。杉木立の中やわさび田沿いの細い道を、天城の山々に目をやったり滝の音に耳を澄ましたりの一人歩きは、ずいぶんぜいたくな気分だった。作品の主要な舞台である湯ケ野温泉が、全体にあまり変わっていない印象だったのもうれしかった。河津川の流れ、湯ケ野橋、橋の袂の宿、対岸の共同浴場など、まったく以前のままだった。それでも立派な敷石道になった川縁の道や、玉砂利や洒落た街灯で整備された橋の袂の川端文学碑の周辺などは、まったく見違えるほどであったが。(清水節治・法政大学講師) |
『月刊国語教育』1998・9 |
![]() 天城トンネルを抜けて湯ケ野への道(撮影1998・6) |
![]() 湯ケ野橋向こうの川端康成ゆかりの宿福田屋 |
![]() 踊子像(撮影1977・3) |
![]() 河津川岸の共同浴場(中央) 撮影1977・3 |
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