このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
◆変身譚に託した自己の魂の切実なドラマ |
中島敦『山月記』 |
横浜元町の中島敦文学碑 |
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『山月記』 |
隴西の李徴は博学才頴、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところすこぶる厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山、號略に帰臥し、人と交りを絶って、ひたすら詩作に耽った。下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。 |
唐の時代の李徴という俊才は、官吏にあきたらず、詩人として名を成そうとしてそれにも挫折、やがて発狂し行方知れずとなった。一年後旧友袁は旅の途中で、今や虎と化した李徴と邂逅する。李徴は己の数奇な運命を語り、命を賭けた詩作の一部と妻子のことを託し、残月を仰いで二声三声咆哮した後に姿を消した…これが『山月記』の物語だ。 |
『山月記』は、昭和一七年の「文学界」三月号に発表された中島敦の文壇デビュー作だが、彼はその年の十二月に宿痾の喘息がもとで世を去った。三十三歳六か月の短い生涯だった。残された作品も多くはない。しかし彼の作品は、高校の国語教材として驚くほど長く豊かな生命を保っている。検定教科書発足当初から『山月記』『名人伝』『弟子』が、やがて『李陵』『司馬遷』『悟浄歎異』なども加わって、彼の作品はずいぶんたくさん採られて来た。中でも『山月記』は突出している。定番中の定番の『羅生門』『こころ』なども、教材化されたのはずっと遅いから、『山月記』にははるかに及ばない。戦後の高校でこれほど採られた教材はないのである。 |
採録される理由はさまざまだろうが、簡潔雄勁、格調の高い文章の魅力がその中心にあるのは確かだろう。筋立ては唐代の伝奇小説『人虎伝』を借りながらも、作者は文章に自分の魂の問題を刻み込んだ。それが読む者の心を打ち続けるのだ、と思う。 |
中島敦は大学を卒業した年から死の前年まで、横浜高等女学校に勤めて国語と英語を教えた。その跡地はいま横浜学園の元町幼稚園となっていて、かつての校庭(園庭)の一隅に、『山月記』の冒頭を刻んだ碑が建っている。除幕式にはたか未亡人も出席、二人の幼い孫が除幕、作文などでも「ある」と「あります」の混同は許さなかった、とかつての同僚が在職中のエピソードを語った、と「神奈川新聞」(昭50・12・8 )が伝えている。 |
中島敦は横浜高女に八年在職した。三十三年の生涯だったから、短い期間とはいえないだろう。持病の喘息で欠勤も多かったらしいが、居心地は悪くなかったようだ。健康を気づかわれながらも 登山や水泳等の行事に参加、ウイットに富む会話で周囲をいつも笑わせていたという(山口比男『汐汲坂』)。彼はここでの八年間、努めて明かるく元気にふるまいながら、喘息の発作とたたかい、膨大な書物を読み、小説を書き、短歌(近くの外人墓地に歌碑がある)を詠んだ。『山月記』はその頃に生まれた作品だ。 |
秋の日差しと園児たちの歓声を背に受けながら、碑の前にたたずんでいると、『かめれおん日記』などに描かれた教師像と、詩人になりそこねて虎になった俊才李徴の姿とがいくらかダブって見えて来るのだった。 (清水節治・法政大学講師) |
『月刊国語教育』1998・12 |
![]() 横浜元町の汐汲坂。左が横浜学園 |
![]() 元町幼稚園。奥の中央に中島敦文学碑 |
![]() 元町幼稚園に掲げられている中島敦の説明板 |
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