太平洋戦争末期、米軍の本土上陸必至と予想された当時の、桜島が舞台だ。主人公の勤務する海軍通信基地には、緊張感とともに焦燥や絶望、虚無的な感情がただよっている。吉良兵曹長の、「どうせ此処で、皆死ぬんだ」という不気味でマニヤックなまなざしに耐えながら、「私」は美しく死にたいと思いつめている。しかしその運命を納得できないでいるうちに、親しかった見張りの兵が、グラマンの機銃に撃たれてあっけなく死ぬ。兵の死に熱い涙をそそぎながらも、滅亡が、なんで美しくあり得よう、と思う。やがて玉音放送、終戦。「私」は熱い涙の中で桜島岳を振り仰ぐ、これが作品の結末(掲出文)だ。 |
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『桜島』は高校の現代文発足と同時に登場したが十年ほどで姿を消した。主題の重さに加えて、長目の教材ということが、敬遠された理由かと思われる。片耳の娼婦や、双眼鏡でのぞき見る首吊り未遂の場面など、重要部分をカットしての教材化というところに、もともと無理があったのかも知れない。 |
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『桜島』の舞台を訪れたのは、一九九四年の三月だった。バスも宿も空いていた。見張所があったという桜島港の背後の丘は、今は公園になっているが、そこもその上の湯の平展望台にも人影はまばらだった。展望台の土産物店には老女が一人で店番をしていて、下の学校付近にあった陣地や、兵隊の壕掘り、機銃掃射で死んだ子供のことなど、当時の話をしてくれたが、昭和二十一年の噴火の話の方に熱がこもっていうように感じられた。既に終った戦争のことよりも、噴火の記憶の方が生々しいのは、溶岩の島に暮らす人の関心と実感の当然のありようかも知れなかった。 |
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それにしても、戦後文学の代表作といわれるこの作品に、地元の桜島がそっけないのは意外だった。林芙美子の像や碑は立派だったし、あちこちに歌碑や句碑は賑やか過ぎるほど建っていたが、『桜島』とその作者については、碑はおろか(坊津には梅崎春生文学碑がある)観光案内のパンフのどこにも記載がなかった。観光客目当ての仰々しい宣伝や碑にはへきえきするが、その風土と密接な関係をもつ作品(この島以外に『桜島』の舞台を想像することは困難だ)の称揚にはもっと積極的であっていいのではないか、と思いながら島を後にしたのだった。 (清水節治・法政大学講師) |