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李白『早発白帝城』——教科書の風景 ⑱


——峻険な峡谷、激流の大河を下る爽快感
 早発白帝城   李白

朝辞白帝彩雲間
千里江陵一日還
両岸猿声啼不住
軽舟已過万重山
早(つと)に白帝城を発す

 朝(あした)に辞す白帝彩雲の間
千里の江陵一日にして還る
 両岸の猿声啼いて住(や)まざるに
 軽舟已(すで)に過ぐ万重の山

長江・巫峡の景観(1992・8・1撮影)

 李白は盛唐の詩人。その詩編は杜甫と並んで教科書の定番だが、中でもこの「早発白帝城」は戦前からよく採られて来た作品だ。 朝焼け雲に染まる白帝城に、朝早く別れを告げた私の舟は、千里も離れた江陵にたった一日で着いてしまった。両岸から聞こえる猿の啼き声がまだ耳に残っている間に、軽やかな舟は重なり合う山々の間を通り過ぎていたのだった……が大意。七言絶句で、押韻は「間・還・山」。白帝城は前漢末に公孫述が築いたもので、蜀の劉備がここで没したという『三国誌』の故事でも有名だ。江陵は湖北省にある揚子江沿いの町。白帝城からは三○○キロほどの距離にある。
 李杜の国を一度はこの目で、という念願のようやく実現したのは七年前の夏で、長江三峡ダムの建設が決定した直後だった。広州から成都を経由して重慶から三○○○トン級の豪華客船に乗った。その日はゆったりと下って万県に停泊、翌日早朝に出発すると、やがて左手の山の頂に白帝城が見えて来た。と思う間に船のスピードがにわかに速くなった。瞿塘峡(くとうきょう)にさしかかったのだ。滔々と流れて来た数百メートルの川幅はいっきに狭まって、峻険な峡谷の間を流れ下る激流と化し、垂直に切り立つ断崖絶壁の瞿塘峡、奇峰奇観の巫峡(ふきょう)、かつては難所として恐れられた(暗礁も今は爆破されたが)複雑な流れの西陵峡へと二○○キロを下っていく。
 渦巻く濁流を下る船の前後には、船影が見え隠れし、下流からは貨物船や客船がひっきりなしに上って来る。手漕ぎの漁舟はもちろん、小型船などは盛んに黒煙を上げながら、流れの激しい中央を避けて岸辺を伝うようにして上って来る。
 作詩の時期を、李白が初めて長江を下った時とする二十五歳説もあるが、罪を得て奥地に流される途中、恩赦で江陵にひき返した時とする五十九歳説の方に説得力がある。当時は激流にかかると、岸から綱で曳いたというが、李白に、遡上の難儀から三日三晩で髪の毛が白くなったとうたった「上三峡」の作もあり、「千里江陵一日還」には三峡遡上の経験あってこそ、と思わせるものがある。 

『月刊国語教育』 1999・9月号


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