このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

修善寺の漱石



小林古径邸
 夏目漱石は、明治43年(1910)6月、胃潰瘍で長与胃腸病院に入院し7月末に退院、転地療養のため8月6日、伊豆・修善寺の菊屋旅館にやってきたが、着いた翌日から体調すぐれず、翌々日からは胃痙攣にしばしば襲われ、「膏汗が顔から背中に出る」(日記・八月十二日)ほどで、やがて吐血も加わり、24日には800グラムの大量吐血、人事不省の危篤状態に陥った。いわゆる「修善寺の大患」である。後に「三十分の死」(『思い出す事など』)と振り返ることになるこの危篤状態から、漱石は奇跡的に生還、医師、看護婦、妻や門下生の手厚い看護を受けて徐々に回復、日に2回の注射が1回に、それもしなくてよしとなり、50グラムの葛湯で命をつないだのが、重湯になり粥になった、その時日記(十月四日)に記した句が「骨の上に春滴るや粥の味」だった。

 10月11日に帰京、「橇の如きもの」で二階から馬車に移され、三島で汽車に乗り換え、新橋からは担架、「釣台」で長与胃腸病院に再入院した。漱石は知らされなかったが、彼が修善寺で生死の境をさまよっているころ、漱石を治療し、転地先の療養をも案じてくれた長与又郎院長が他界した。このことを知った漱石は、「治療を受けた余は未だ生きてあり治療を命じた人は既に死す。驚くべし」と帰京入院した翌日の日記に書き、「逝く人に留まる人に来る雁」と詠んだ。この修善寺の体験は、その後の漱石に大きな影響を与え、『思い出す事など』、『彼岸過迄』を経て、後期三部作といわれる『行人』、『心』、『道草』の世界へと進むのである。
修善寺・虹の郷の日本庭園の池。橋の左手に夏目漱石記念館がある
←夏目漱石記念館入り口
夏目漱石記念館→
↑菊屋旅館から移築復元された漱石滞在の部屋
↑漱石滞在の10畳の間にかかる額。佐賀藩出身で維新後に活躍した大木喬任の書。菊屋旅館に宿泊した一人といわれる。
↑隣の部屋にかかる漱石の書。あきらかに漱石の自筆だったが、複製かも知れない。
床の間の軸には見覚えがある。昭和40年代の終わりごろ、友人とこの床の間の前で写真を撮ったのだった。まだ菊屋旅館は以前の場所にあった頃のこと。
←夏目漱石記念館前の花菖蒲園
夏目漱石漢詩碑

仰臥人如唖  黙然看大空
大空雲不動  終日杳相同

修善寺大患時の作。碑は修善寺自然公園にある。建立は昭和8年。碑陰に漱石の親友狩野亨吉の「……漱石生死ノ間ニ彷徨シテ性命ノ機微ヲ捕捉シ知察雋敏省悟透徹スルトコロアリ漱石ノ思想ノ轉向躍進ヲ見タルハ亦實ニ此時ニアリ……」 の一文が刻まれている(写真は1992・3・8の撮影)。

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