このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

『火垂るの墓』紀行——福井県/春江町(1995・7・9)
 神戸からの帰途、福井県春江町に回った。ここに野坂昭如(当時は張満谷昭如)は、昭和20年の8月1日から一か月疎開していて、8月22日に妹はここで亡くなった。『火垂るの墓』のもう一つの重要な舞台である。これまでの小説・エッセイで、小学校の時の同級生を頼って来たこと、住んだのは機屋のガランとした建物だったこと、配給所で受け取った米をその前を流れる小川にこぼしたこと、田んぼの中の露天の焼き場で妹の遺骸を焼いたことなど、それぞれの断片は鮮明に繰り返し描かれながらも、位置関係はあいまいな描き方がされてきた

 福井の二つ先の小さな駅春江に降りると、郵便局がすぐ目に入ったと野坂昭如は書いている。ところがその郵便局が駅前を歩いてどこにも見当たらない。地図を買うというついでを作って、本屋で訊ねてみると、そこの銀行の建っている所にあったのだが、と通りの向こうを示してくれた。当時中学3年生だった昭如少年は、その郵便局で同級生の姉という人から、「ほぼ真直ぐな通が通り、その果ては北陸線と交差して、先きは畑、踏切の手前左側に機屋、前が旋盤工場」という、目当ての友人の家を教えてもらった……と描いている。

 その北陸線踏切の程近くに、私設の資料館を開いている旧家の老主人から、終戦当時、露天の焼き場だった所は、今は公園と幼稚園になっている、と聞いた。駅へ戻る道の三叉路の右手に公衆浴場がある。浴場は何軒もあるが、踏切から一番近いこの湯が、疥癬で断られたと書かれた(『行き暮れて雪』)風呂屋かと思う。その三叉路を左に折れると、右手に当時米配給所だったという春江米穀店があった。ここで受け取った貴重な米が、袋に穴が開いていて米屋の前の流れに落ち、透き通った水に白い米粒がゆらゆらと沈んでいった光景を、自伝小説『火系譜』などで、野坂昭如は繰り返し描いたが、その米屋の前の流れも、今はコンクリートで固められ水量はたいしてないが、水はきれいだった。「見覚えのある米屋、十円で黄楊の柄を買った雑貨屋、幅の狭い割りに深い水をたたえた堀、焼き場への道を辿り……」(『行き暮れて雪』)と描かれた当時の焼き場跡は、米屋から少し先を右に折れる道筋にあった。その跡地に建つ幼稚園隣接の公園には二宮金次郎像が建ち、男児が二人大きくブランコを漕いでいた。
春江町・北陸線踏切付近
野坂昭如(当時は張満谷昭如)の疎開(1945年)先と推定される春江町の北陸線踏切(前方)近く(1995・7・9)
JR春江駅JR北陸本線春江駅ホーム(以下いずれも写真は、1995・7・9撮影)
JR春江駅前(正面が駅)JR春江駅前通り
春江町風景春江町風景(駅前から左手の通り)
春江町の北陸線踏切(前方)近く この通りの左手に疎開した機屋があったように野坂昭如は『行き暮れて雪』などに描いている北陸線踏切近く
米屋の前の流れ休日で米穀店はシャッターが下りていた。店の前の流れの水は澄んでいた
かつて焼き場があった所は公園になっていて、子供たちがブランコで遊んでいた焼き場跡の公園
旧家の資料館老木に囲まれた旧家の資料館
春江町の水田風景水田風景
小林古径邸

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