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西宮市・ニテコ池(1994・10・22撮影) |
『戦災孤児の神話—野坂昭如+戦後の作家たち』を刊行する時(1995年)に、『火垂るの墓』の重要な舞台ニテコ池の写真を口絵にしたいと思ったが、以前に撮ったものが物足りなくて、撮りなおしに出かけた。1995年の7月のことである。ところがそれが誤算だったことは行ってからわかった。ニテコ池は阪神大震災ですっかり形を変えてしまっていたのである。
震災から半年経って、高架の電車から見る神戸・西宮の街々は、伝えられた惨状よりもむしろ平穏な日常をうかがわせるものであった。阪急夙川の駅から夙川公園の土手に出ても、その印象は変わらなかった。たまたま休日のせいもあってか、人々は犬を連れたりジョギングしたりしていた。ところが土手から下の町筋に降りてはっとした。家屋がぽつんぽつんとしか無いのだ。
確か『火垂るの墓』に登場する喫茶店パポニーはこの辺りだったが、と見回しても何もない。もう一本先の通りだったか、と歩きかけてふと二本の椋欄の木が目に止まる。まぎれようもない喫茶店パポニーのあの椋欄なのだ。その両側にあったはずの家も跡形なし、周辺一帯僅かの建物を残して一面の更地になっている。前に釆た時パポニーのことを教えてくれた煙草屋が道を隔てた向こうの角にあったはずだが、と見回してみてもその一帯もほとんど何もなくなっている。
戦災にも焼けず、前年来た時にはLA PAVONIの文字を、壁にも入り口にも掲げた洒落た洋館が椋欄の後に建っていたのに、それが影も形も無くなっている。椋欄の根元の板切れを店の看板かと裏返してみたりしていたら、近所の奥さんがもじどおり駈け寄って来て、消息を知らせてくれた。高齢だったパポニーの女主人は無事でどこそこに避難されている。この家の斜め後ろでは五十代のご夫婦が、あそこでは若い娘さんが亡くなったし、この地域だけで二十数人の方が犠牲になられた。何しろ二階建ての家がこのくらい(と肩のあたりを手で示して)になるんですから、どこに埋まっているか掘り出すにも見当もつきかねますしねぇ、と当時の惨状を生々しく語り、パポニーの連絡先などのコピーを自宅まで大急ぎで取りにいってくれた。そのNさんの家は残っていたが、建てる時に主人がうるさく根太や梁を頑丈にと工事をさせたお陰か、と言っておられた。
そこで満池谷のニテコ池の堤防が地震で壊れたことも聞いた。急いで清水町から満池谷へ向かった。溝の流れに沿った道をたどると塀が傾いたり、崩れたりしている。マンション風や、コンクリート造りの建物を残して更地になっているのは、たいがい倒壊家屋の跡であろう。谷から南郷町へ上る急な石段の両側の、古い家を以前来た時に写真に撮った覚えがあるが、そこも右側に塀の跡を僅かに残すのみ。ニテコ池から流れ出る小さな流れの傍で、犬の毛を手入れしている人にたずねたら、親切にいろいろ話してくれた。木造の古い家はあらかた壊れた。おまけに三つ連なるニテコ池の、上の二つの堤防が地震で壊れ住民は避難するなど大変だったと言う。
終戦前後の頃のことですか、さあ昔のことを知っている人といったら○○さんと△△さんかなあ、どちらも避難先に移られて…とHさんは首を傾げ、ニテコ池の傍の防空壕も聞いたことがないというが、野坂さんならすぐそこに疎開されていたそうですよ…とさりげなく指を差す。え!これがあの…と絶句してしまう。前にもこの町を訪れたことはあったのだが、ぶしつけに訊いてみることもはばかられて、谷間の町を遠慮がちにただ通り過ぎただけだった。それが今はからずも『火垂るの墓』由縁の場所を、偶然知ることになったのだった。まだ壊れた家屋の残骸がそのままのその家の左側には、満池谷○○と表示のある築数年のしっかりした二階建て、右は新築中のモルタルの二階家。市の元助役とかの住居だったという前の一郭は、杭と鉄線で囲われた更地になっていて、早くも夏草が茂り始め、昼顔が淡いピンクの花をつけていた。
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 | 喫茶店パポニー全景(1994・10・22撮影) |
2本の棕櫚の木が店のシンボルのようだったパポニー(1994・10・22撮影) |  |
 | 大震災後パポニー跡には2本の棕櫚の木だけが残っていた(1995・7・8撮影) |
震災後のパポニーの跡地全景(1995・7・8撮影) |  |
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