このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
多摩霊園
多摩霊園は大正12年(1923)造成のわが国最初の公園墓地で、当初の名称は多摩墓地だった。広さは約390,000坪、埋葬総数は約370,000体と霊園案内にあるが、まるで見当もつかない。著名人の墓も多く、東京都公園協会発行の「多摩霊園にねむる著名人」(平成6年7月)には、265名もの名前が記されている。さっそく近いところの区画から作家の墓碑を尋ねるつもりで歩き始めたが、いや広い広い。ひとつの墓を探すのも大変なことだった。 多摩霊園は隠れた桜の名所で、「しだれ桜並木」と名前のついた通りがあるし、園内いたるところに桜樹があり、4月上旬に訪れた日には、ソメイヨシノがほぼ満開だった。しかし、休日でもない日に、墓地の花見などに訪れる酔狂人はいないと見えて、ときたま走り去る車を見るだけで、人影をほとんど見なかった。 |
![]() | 道路の桜 多摩霊園は本当にサクラが多かった。広い園内には縦横に道路が走り、バスも通っていて、(園内に二つバス停がある)、その道沿いのいたるところに桜の木があった。 |
墓地の桜 墓地の中にもまたあちこちに桜の木が立っていて、満開の桜の華やぎが、静まりかえった墓標の列と不思議なコントラストを見せていた。墓地には桜がよく似合う、と思った。 | ![]() |
![]() | 川合玉堂の墓 広い墓地をやみくもに歩いていると、思いがけず著名人の墓にぶつかることがある。これは日本画家川合玉堂の墓だが、他に平福百穂、下村観山などのものもある。 |
尾崎秀実の墓 多摩霊園には、東郷平八郎や山本五十六の墓もあるが、スパイ事件で処刑された尾崎秀実やゾルゲの墓もある。人間、土に返ればみな平等、とつくづく思う。 | ![]() |
![]() | 三島由紀夫の墓 平岡家の墓は満開の桜の木の下にあった。手前の墓標は「霊位標」。 |
平岡家の霊位標 右から4番目に「彰武院文鑑公威居士 俗名平岡公威 筆名三島由紀夫 昭和四十五年十一月二十五日去世 行年四十五歳」と記されている。隣に、梓、倭文重、瑶子と両親、妻の「霊位」の記載が並ぶ。 | ![]() |
![]() | 中島敦の墓 中島家の墓地の一郭に、この墓がある。「多摩霊園に眠る著名人」には、「喘息と闘いながら『山月記』などを執筆。『古譚』『光と風と夢』が深田久彌の推薦で発表され、後者は芥川賞候補に上り作家として一躍注目されたが、その年末に病死した。不幸な作家であったが没後『李陵』等の遺稿が発表され、評価が高まった」とある。的確な紹介文だ。この墓にめぐり合えただけでも、この日は収穫があった、と思った。 |
岡本一平かの子の墓 岡本家の墓は異色だ。母かの子の墓(左)はともかく、父一平の墓(右)は紛れもなく岡本太郎の作品であろう。一平かの子の墓の上には、桜樹が満開の枝を広げていた。太郎の墓は両親と向き合った位置にある。 | ![]() |
![]() | 岡本太郎の墓 この墓も、おそらく生前に岡本太郎自身の手で作られていたものであろう。この墓の右手の碑には、川端康成の「岡本一平、かの子、太郎の一家は、私には懐かしい家族であるが、また日本では全くたぐい稀な家族であった。私は三人をひとりひとりとして尊敬した以上に、三人を一つの家族として尊敬した……」と、岡本家に寄せた一文が彫られている。 |
外人墓地 多摩霊園には芝生墓地、無縁墓地、壁墓地などがあり、園内の一郭に外人墓地もある。およそ300の墓所に異邦人が眠っているという。 | ![]() |
![]() | 暮色迫る墓地 この日、2,3時間も歩いたが、26もある区画の二つか三つの区画を歩いたに過ぎなかった。5時半で門が閉められる、という注意書きが目に入る。他日を期して多摩霊園を後にした。 |
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