このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

五合庵—良寛史料館


五合庵  良寛は48歳から59歳までここに住んだと言われる。建物は大正3年(1914)の再建。簡素きわまる草庵だが、良寛はここで座禅をし、古典を読み、詩歌を詠じ、そうして時々托鉢に出たのだった、という。
良寛句碑  五合庵のすぐそばに建っている。「たくほどは風が持てくる落ち葉かな」の句が全部漢字で彫ってある。
弁慶清水  義経一行が奥州に逃れる途中、弁慶が掘ったと言う伝説の井戸があちこちに現存している。これもその一つ。 
良寛歌碑  碑には「本覚院につどひてよめる 良寛 
             やまぶきの花をたおりておもふどし
             かがす春日はくれずともがな」と刻んである。
山頭火句碑  句は「青葉分け良寛さまも行かしたろ」。山頭火没後50年の追善供養として、平成2年6月に建てられた。漂白の俳人山頭火がこの地を訪れたのは、昭和11年6月だった、と碑の横に刻んである。
千眼堂吊橋  国上寺へは分水からの車を降りて、朝日山公園の駐車場横から少し上り、五合庵へはそこからかなりの下りとなる。五合庵から元の道を引き返さずに朝日山公園へ行けるように架けられたのがこの橋。
子供たちと良寛の像  国上寺参道入り口にあたる朝日山公園には駐車場や休憩所が整備され、この子供たちと鞠つきに興じる良寛像も建てられている。茂木弘次作。良寛には、「この里に手毬つきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし」の歌もあり、この歌碑が分水北小学校にあるという。
良寛史料館  国上寺の麓にあたる分水町には良寛史料館がある。良寛の遺墨・遺品などを保存、展示している。歴史民俗資料館も併置されている。
展示室  史料館展示室では、この日は良寛とゆかりの人々の交流を示す特別展を開催していた。
良寛歌碑  史料館の庭には、良寛坐像や歌碑がいくつも置かれているが、これもその一つ。分水町阿部家所蔵の遺墨(国指定重要文化財)から、「わかいほを たつねてきませ あしひきの やまのもみちを たをりかてらに」の歌が万葉仮名で彫られている。
大河津分水  越後平野は信濃川の大洪水にしばしば見舞われたが、その解決策として信濃川に堰を設けて、本流の一部を分水路から直接日本海に流そうとした。明治42年(1909)から完成までに13年という大工事だった。昭和6年(1931)には可動堰もできて現在の姿になった。分水町はその時3町村の合併でできたもの。
竣工記念碑  大河津分水は完成の5年後、川底の洗掘によって自在堰が壊れ、本流が全部分水路に流れ込み、下流は逆流、水田への引水、上水道への給水もできず、新潟市でも海水逆流で、市民は塩辛い水を飲まされるというパニック状態だった。その後難工事の末可動堰などを完成、その補修工事竣工の記念として建てられたのがこの碑。銘版には「万象に天意を覚る者は幸なり、人類の為め、国の為め」の文字がある。

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