このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
明石海人歌碑——沼津 千本浜公園
![]() | 千本浜公園 牧水の墓のある乗運寺から少し歩くと、松林に差し掛かる。そこに新しい碑が建っていた。明石海人の歌碑だった。明石海人の名は知られているが、ハンセン病の故に、本名も出生地も秘匿されたままだった。文学事典等にも、近年までは「癩者のために……公表されない」とあったのである。明石海人が沼津出身とは知らなかったし、ここで真新しい明石海人歌碑に出会ったのは、思いがけないことだった。 |
明石海人 『明石海人(本名野田勝太郎)は明治三十四年七月、現在の沼津市に生まれ……やがて、二十五歳の教員時代に業病と蔑まれたハンセン病を発病。妻子と別れ、故郷と別れ……国立癩療養所「長島愛生園」に隔離収容……知覚麻痺、失明、気管狭窄に襲われ、療友の献身に支えられた壮絶な日々でした。しかし、その苦患の闇に光を求め、文学に志し、歌人として弛まぬ精進を続け……三十七歳の生涯を閉じました』と記されている。日付は平成十三年七月五日、明石海人の生誕百年を記念して、とある。 | ![]() |
![]() | 歌集『白描』序文碑 昭和14年に刊行された明石海人の歌集『白描』は、当時のベストセラーになった。序文は「癩は天刑である……深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない」と書き始められている。ハンセン病患者の強制隔離が始まったのは1007年、47年の特効薬の導入開始以後も、その措置は続けられ、らい予防法は96年まで生き続けた。ハンセン病国家賠償請求訴訟が、今年熊本地裁で原告勝訴、厚生労働相が謝罪したことは記憶に新しい。 |
明石海人歌碑 1 歌碑が三基建てられているが、中央のこれが主碑であろう。歌は「さくら花 かつ散る今日の 夕ぐれを 幾世の底より 鐘の鳴りくる」と活字体で刻まれ、歌の前に自筆かららしい「海人」の署名がある。 | ![]() |
![]() | 明石海人歌碑 2 主碑の隣の歌碑。歌は「ゆくりなく 映画に見れば ふるさとの 海に十年の うつろひはなし」。 |
明石海人歌碑 3 一番左に配置されたこの歌碑には、「シルレア紀の 地層は昏き そのかみを 海の蠍の 我も棲みけむ」と記されている。 | ![]() |
![]() | 老松 千本太郎 明石海人歌碑の前には、千本太郎と名付けられた老松が枝を広げていた。明石海人は非運短命の生涯だったが、彼の歌の命は長い。多くの患者を奈落に落とし込んだハンセン病も、治療法が確立した。 |
本居長世記念碑 沼津港近くの港口公園に、この碑(中央奥)がある。手前左の白い碑は長世記念碑の由来を、金田一春彦が記したもの。そこには「本居長世は、童謡という日本の文化財を人に先駆けて製作した先覚者である……」とある。![]() | ![]() |
![]() | 本居長世記念碑 右の碑には「作曲家 本居長世は 沼津をこよなく愛し 毎年夏には この地を訪れ 海辺の生活を 楽しんだ」と記され、上部に西条八十作詞に曲を付けた「残り花火」の譜面が刻まれている。左の碑には、代表的な童謡曲名が列記してある。![]() |
勝田香月記念碑 港口公園には沼津生まれの詩人の碑もあった。杉山長谷夫が曲を付けた有名な「出船」が、波の文様の中に彫られている。![]() | ![]() |
![]() | 井上靖文学碑 昭和38年、千本松原に作られた。井上靖の文学碑は伊豆湯ケ島をはじめ各地にあるが、これが最初の文学碑だと言う。 |
井上靖文学碑 家紋の上には「千個の海のかけらが 千本の松の間に 挟まっていた 少年の日 私は 毎日それを 一つつずつ食べて育った 井上靖」と刻まれている。 | ![]() |
![]() | 井上靖文学碑 沼津駅前にはこのような文学碑もあった。「若し原子力より大きい力があるとすれば、それは愛だ。愛の力以外にはない。 井上靖」と記されている。 |
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