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教材のふるさと——坂口安吾『ラムネ氏のこと』


  まったくもって、われわれの周囲にあるものは、たいがい、天然自然のままにあるものではないのだ。だれかしら、今あるごとくに置いた人、発明した人があったのである。      ——坂口安吾『ラムネ氏のこと』


小田原市南町の坂口安吾居住地跡。右手道路を隔てて早川の流れ。その先に相模湾。


 小林秀雄と島木健作が小田原に鮎釣りに来、三好達治の家で鮎を食べながら、たまたまラムネの玉の発明者が話題になった。ラムネーという人物が発明したのだ。フランスの辞書にも載っている、と三好が断言するので調べたが、ない。それはうちの辞書が悪いのだ、『プチ・ラルッス』には載っている、といきまく……そんなエピソードから始まったエッセーは、絢爛にして強壮な思索の持ち主いう哲学者フェリシテ・ド・ラムネーに突き当たり、我々の日常を「今あるごとく置いた」無名のラムネ氏への探索へと進む。

 ふぐ料理の「殉教者」やきのこ採りの名人、さらに色恋のざれごとに命をかけた戯作者に言及しながら、「もののあり方」を変えてきたしたたかな人間と精神への、熱い思いを語る。発表は昭和十六年十一月の『都新聞』、暗黒な時代に対するれ言に託しての、痛烈な批評であり「反抗」だった。
 これを教材として発掘したのは筑摩書房『現代国語』で、当時、筑摩の編集陣はまったく冴えていて、こうした優れた教材を次々と「発掘」していったのだった。

 取手の寒さにネを上げた安吾が、三好達治の世話で小田原に転居したのは、昭和十五年の冬だった。この借家で安吾はしばらく執筆に専念したが、やがて東京に出かけては帰らぬことが多くなった。昭和十六年八月、早川橋近くの借家が台風で流された時にも小田原にいなかった。

その安吾の住居跡を訪ねてみた。新早川橋に通じる道路と高速道路に挟まれるようにして、二、三軒の家が立っている。三好達治の住居跡もすぐ近くで、執筆に専念しているらしい安吾の灯火が見えた、三好が回想している(『昔ばなし』)。たびたび洪水を起した早川は道路一本隔てた向うで、高速道路の先には相模灘の海が広がっていた。                        (清水節治・法政大学講師)


『月刊国語教育』 2000・11月号


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