汽車旅つれづれはなし
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---------------------------------------------------------------------- [汽車旅つれづれはなし]        第2号 2000/10/20 ---------------------------------------------------------------------- このメールマガジンは、インターネットの本屋さん『まぐまぐ』を利用して 発行しています。( http://www.mag2.com/ ) ---------------------------------------------------------------------- 尚、登録・解除は、 http://www.mag2.com/mag2/m/0000043279.htm にて自由におこなうことができます。 --------------------------------------------------------------------- こんにちは。 いかがおすごしですか? 僕は、先日お話した通り、九州地方をぶらついています。 周遊切符を買って、特急“富士”のB個室に乗車して。 斜陽から落日へ、と噂される東海道ブルートレインですが、車両は昨秋の 編成変えに伴い、若干整備がなされたようでありました。 何となく、“富士”に14系というのは違和感があるのですが、 しかし、堂々16両編成(電源車、機関車を含めれば)となった事は 良い変化であるか、と思いました。 車掌2名で乗務し、車端、1号車、14号車に乗務しているので 少々不安な気、もしますが、これは編成の都合ではないか、と思えます。 また、車掌担当がJR九州からJR西日本となったことも変化でした。 下り乗務は下関で交代し、上りでは広島で交代していました。 車内販売も下りはなし、上りは浜松からで、食堂車なし、というような 状況で、どことなく合理化の雰囲気漂う“富士”号でした。 東北ー北海道の華やかさとは異なりますが、昔日のイメージが残る 東海道ブルートレインが走りつづけられるように応援したいような、 そんな気持ちになった、今回の旅行です。 ----------*-------------------- 奥羽本線の蒸気機関車列車乗車記(前回の続き) 昭和40年頃のお話です。 青森駅。 架線のない駅というのは何と広々と見えるものか。 雪国の駅は除雪の為かヤードが広く、その事もより広く 見える原因であるが。 石炭の燃える香ばしい匂いが否応なしに遠くに来た、との印象を強める。 ここまではDD51であったが、ここから父の実家のある弘前までは 蒸気機関車の牽引列車である。 一番線から跨線橋を渡り、奥羽本線の3番線ホームへと向かった。 青森の駅は今も、当時と殆ど同じ配線、レイアウトのように記憶している。 この当時は連絡船のある海寄り(函館側)ホーム端に連絡船行きの通路があり、 海の方向に進んで行くと巨大な待ち合い室があった。 (確か、ちょっとした学校の教室くらいに広さだったように記憶している。 ベンチ、20人掛け×6列くらいのもの、海の方向に24型くらいのテレビがあった。 多分、今、物産展示場になっているあたりだと思う...) 現在、青森駅改札を抜けると、跨線橋への通路が直角に折れているが、 おぼろげな記憶では、この通路が真っ直ぐ桟橋に伸びていて、 ホーム端からの通路との接点の辺りに、待合室があったようだった。 余談だが、東京の「船の科学館」に係留されている青函連絡船の内部に、 昭和34年当時の木造待合室が移築され、再現されているらしいので 一度訪ねてみたい、と思っている。->[駅の旅②/種村直樹 ] ローカル蒸機牽引列車。 ホームに降り立つと、茶色の塗装の木造客車が待機しており、 牽引の機関車はC60のようだった。 当然ながら、乗降扉は半木製で、重厚な引き戸、真鍮の取っ手すら 風格を感じるような造りに思えた。 デッキを通過し、木の床の感触に路線バスのような奇異感を覚えながらも、 ボックス・シートに座った。 東京とは違い、列車の中に乗客はまばらで、履物を脱いで シートに正座する婦人、対面シートに脚を投げ出す男、など 都会からするとなにか奇異に感じたものだった。 薄暗い印象のある黄色い電灯、やはり真鍮の帽子掛け、 背ずりの淵すら木、で。 ニスの香りがなんとも不思議な感じがして、高級家具のようだな、 と僕は子供心に思った。 また、窓の日除けも木の鎧戸で、一枚物の板を凝った細工で ブラインド状にされていて、 とても丁寧な塗装がされていた事を思い出す。 これは旧型電車、80系などでも当時、東海道本線などで似たような 装備であったが、概してそれらが擦り切れたまま、 という印象であったのに対し、この客車は重厚なニス塗りで、光沢があり、 車両をとても入念に整備している、という 印象であった。 現在でも青森運転所所属の24系であるとか。583系などに乗車すると、 整備がよく行き届いている、という印象を持つが、 この時の記憶と重ねあわせ、東北人の実直さのようなものを感じるのは、 僕の東北人への親近感からの ものだけではないようにも思えるが.. 暫くすると、ベルが鳴り、車掌が手笛を吹鳴した後、力強い蒸気機関車の汽笛が鳴った。 静かにブレーキが開放され、少し後退したように感じると、ぐい、と引き出された。 この感覚は電車などとはかなり異質なもので、電機のそれがリニアな動力源である、 という印象の無機的な感覚であるのに対し、蒸機はそれがピストンの往復だという事 を意識するような断続的なトルク感覚であり、都会から来た異端者には その石炭の燃える匂いと共に、とても新鮮であったことを今でも思い出す。 列車は元来た東北本線に戻るように走りはじめ、構内のポイントで 向かって右にカーヴし、奥羽本線を走り始めた。 黒い煙が窓越しに見え、良く見ると、窓枠に煤が付いていた。 ゆっくりと、単線の線路に沿い、C60は速度を増していった。 かなり、起伏のあるようだった路線を、力強いドラフトを響かせて。 駅に停車する度、ドレインを吐き出す蒸機が、ため息をついている ように感じられ、少年であった僕はなんとも不思議な気分になった。 小一時間程で、弘前の駅に列車は到着した。 客車列車。 このような客車列車は、昭和の時代、牽引機をディーゼル、電機と換えながら また、客車も50系や12形などと変遷をしながらも ついこの間、JR化されても暫くはあちこちで見られたが 現在では九州の一部、筑豊本線に僅か残るのみであるという。 昨年までは久大本線、鹿児島本線でも見られたのだが。 イヴェント列車か寝台特急だけになってしまうのは、やや寂しい気もする。 奥羽本線。 奥羽本線は当時も今も殆どの区間が単線であったが、 この当時と今とではだいぶ線形に違いがあった。 今、701系などに青森->弘前間を乗車しても、平坦な印象のある線形で トンネルも1個所くらいだと記憶しているが、 この当時の奥羽本線は、その個所がトンネル数個所、また難所である弘前以東、 津軽湯の沢-陣場間なども峠越えであった。 (現在はトンネル。) 弘前駅。 弘前駅に降り立つ。 この当時は、ホーム6面だったと思う。 構内の様子は、まあ架線の有無、くらいで 今とあまり変わらないようだった。 50km程の距離だが、なぜか長い距離を旅行したような気持ちになり、 牽引していた機関車が流す蒸気が、息遣いのようで 僕はとてもいとおしい、と思った。 黒い鉄塊が、有機的な、なにか大きな動物のようで その感じる熱も、どこか体温のように思えてならなかった。 父に連れられて、跨線橋を渡って線路北側になる改札を抜けた。 駅前は広場になっていたが、ロータリーなどという西洋的な構造ではなく、 そこにバスが数台、待機している、という郊外の駅でよく見掛けるような 情景であった。 弘前の駅前広場は、今と同じ場所にあるのだが、この当時は雪国らしく 舗道の上にはトタンの雪除けがあったり バスの転換場所にはやはり鉄道と同じような雪たまりの場所が設けてあり その、広々とした感覚は、都会の手狭な印象を受ける駅前などとは かなり異なるものである。 当時、奥羽本線は未だ単線非電化であり、撫牛子ー弘前間の複線化 工事もまだ、という状況であった。 今、撫牛子駅から青森方向を見ると、線路が並行してカーブしており 元は単線だったことが良く解る。 牽引機C60は、おそらくは東北線電化で余剰となった機関車であろう と思われたがしかし、初めて真近で見る蒸気の迫力に圧倒された僕は それ以降、蒸気機関車が以前にも増して好きになった。 現在では青森周辺も都市化が進み、どこの街にいるのか解らないほどだが この当時はまだ駅周辺も閑散としていて、田舎に来たのだ、と実感する事が出来た。 クリーム色とオレンジ色の塗り分けである弘南バスに乗り込み、藤崎行きで 国道7号線沿いに、青森方向へ向かう。 ほとんど直線の道路も、都会の曲がりくねった細い路地に慣れた目には新鮮で、 また、街路の建物にビルなどが少なく、バスで数分走ると赤茶色のトタン葺 平屋住宅ばかりになり、遠くまでりんご畑が、ずっと岩木山まで見通せる。 こんな、田舎らしい風景がもの珍しかったのか、この情景は今でもあざやかに 記憶している。 撫牛子(ないじょうし)駅の前を通過し、停留所を幾つか過ぎたところで下車した。 一面、低い家と田畑ばかり、高いもの、といえばりんごの木ぐらい。 こんな景色を見、子供だった僕は何故か寂しさを覚えた。 現在ならば、安らぎを感じるところであろうが。 このあたりの集落は百田(ももた)といい、当時から行政区は弘前市であった。 しかし市境に近く、ほんの100メートルも歩けば平川(ひらかわ)を境に 向こう側は藤崎町である。 ともあれ、ここで数年を過ごす、とは知らずに単純に僕は旅行気分を味わっていた。 そう思えば、家畜の匂いや、土塊臭い土地もただ珍しいだけ、だった。 現在ではこの百田地区も都市化してしまったが、この当時は農村を象徴化した かのような風景であった。 水田が広がり、深い用水路は草で生い茂り、淀んだ水には川魚が棲んでいる そんな、ありふれた農村の風景。 今、あまり見かけることは無くなったが..。 少年であった僕は、空缶に蚓を入れ、よく釣りになど出掛けたものだった。 ふと、耳を澄ますと、遠く、鉄橋をD51などが渡って行くドラフトの音が聞こえ、 旅への憧れをふくらませたり。 そう、想いに耽る時間があり、空間があったという意味でとても豊かな 少年期を過ごせたか、とも思える。今振り返ると。 しかし数ヶ月もすると東京が懐かしくなり、帰りたい と駄々をこねて母を困らせたものだった。 それが、数十年もするとふらり、と訪ねてみたくなる土地になり、 東京生まれである自分が、故郷、という語感に相応しく感じる場所は やはり、この弘前近傍なのだ。 (そう思い、今夏、583系臨時で帰郷しては見たが、 都市化していた故郷の姿は、失望を覚えるだけ、であった...。) 国鉄職員の叔父は、写真が好きで、よく撮影に僕も連れていってもらった ものだった。 黒石線の林檎畠を駆ける8620や、五能線で吹雪にあえぐ9600、 矢立峠のD51三重連....。 ヤシカのカメラにツアイスレンズをつけて。それらをネオパンSSに焼き付ける事、 それはとても楽しく、緊張する瞬間であり、 轟音と共に走る蒸機の力強さは、稚な心を魅了し、それ以後の趣味嗜好に大きな 影響となって存在した。 今でも、男としての在り方、の象徴のように思えている。 また、ツアイスレンズの精巧さは、子供の僕にも憧れを抱かせるような存在であり、 以来、現在にいたるまでの写真趣味も、このレンズのせいであるか、とも思える....。 --[汽車のある風景]---------------------- このころの体験に前後して、ポップス音楽に興味を持ったのですが、 そんな少年期の思い出を、つれづれ、と書き綴ってみましたが...。 ちょっと、主旨からは外れるのですが、まあご愛嬌。 -----*------------- 夕日が、滲んで紅に。 岩木山の麓に隠れようとしている。 淀んだ流れに、柳の枝が触れ、ゆらゆらと。 農業用水路の、深み。 草が生い茂り、土手から。 なんとなく、ナイアガラの滝の絵の様に。 僕は、さっきから飴色の竹竿を握り締めている。 唐辛子のような、浮子を見つめ、ぼんやりと波紋の行方を追っている。 ランニングシャツが汗と砂埃で、纏わる。 「....!」 帰ろう。 錆びた空缶の中のミミズを、小川に投げる。 鮒か何かが、凪を破って水面を揺らす。 何故、釣り針が無いと解るのだろう。 僕よりも、頭がいいのだろうか? 針須の先は、何もついていなかった。 竹竿に巻き付け、針先を竹の根元に刺し、固定する。 祖父の遺した自転車の茶色のリアフレイムに、竹竿を挟む。 下塗りの白が、所々見え隠れしている。 指で触れると、はらはらと。 辺りが薄暗くなってきた。 三角乗りで、ぎくしゃくと進む。 ひび割れたタイアが、土と砂埃を掴み、さらさらと音がする。 遠い落日が、膨らんで見える。 大きなほおずきのようだ。 国道7号線から、路地に入ると、赤茶色のトタン屋根が祖母の家だ。 納屋に、自転車を停め、玄関に向かう。 模様が刻まれたガラス、すすけた木のの引き戸。 取っ手のところが黒くくすんでいる。 戸車が砂を噛み、渋い。 無理矢理押し開け、腰を入れてこじ開ける。 でも、閉まらない。 「ただいま」 豆絞りで頬かむりの祖母が、絣の着物で振り返る。 「閉めねば、まいね!」(閉めなくちゃ、いけないよ) 強い口調で言う。 「閉まらん」 僕は答えた。 何かぶつぶつ言いながら、祖母は引き戸を閉じてくれた。 「腹減った」 「きび、けへ、」(とうもろこしがあるよ、おたべ。) 夏なので、火をいれていないだるまストーブの上の竹笊だ。 大き目の黄色いそれを掴み、かぶりつく。 甘い。 歯の間に、たちまち何かか挟まる。 居間のテレヴィのスイッチをひねる。 細い4本足、木のボディ。 ねずみ色のブラウン間は、丸みを帯びて。 飾り銀糸のスピーカー。 細い光芒が、ぼんやりと広がり始める。 ハム・ノイズが聞こえる。 出窓に座り、ぼんやりと外を眺める。 隣の工藤君は、今何してるんだろう...。 菓子屋の君子ちゃんは...。 学校ないと、つまんないな。 テレヴィから、聞いた事の無い音楽が、僕を包んだ。 それは、突然の夕立のように感じられた。 日本の歌では無いように思えた。 当時の僕には、その程度しか分からなかったが。 学校で教わる唱歌とは違い、魅力的だった。 黒白の画面には、健康的な少女(?)が歌っていた。 パンチのある、しかし愛らしい、不思議なサウンド。 僕は、画面に釘付けになっていた。 とうもろこしを食べるのも忘れて。 かまどの方から、祖母がけたたましく笑った。 「子供が、...」 それ以外は聞き取れなかった。 東京から来た僕には、津軽弁は未だ不可解な外国語だった。 恥ずかしさがどうしようも無かった。 居間を飛び出し、縁側から路地に飛び出した。 ゴム草履を突っ掛け、裏の畑の方に夢中で駆けた。 どこでもいい、逃げ出したかった。 ゴム草履がよじれ、路地に投げ出された。 土の匂いがする。 すぐに立ち上がり、砂を払った。 膝小僧の絆創膏が剥がれて、血が滲んでいる。 頭がくらくらする。 とうもろこし畑の際にある、楡の木に登った。 祖父が植えたものである、と叔母が前に教えてくれた。 遠く、林檎畑が果てしなく続く。 薄暮になり、薄墨を流したかの様に見える。 父はどうしているのだろう。 何故、僕だけが、こんな田舎にいるのだろう。 こんな目に会わずに済むのに。 父さえいれば。 東京に帰りたい....。 祖母が、木の下に駆けてきた。 「降りなさい!」 僕は黙る。 「どうして...。」 「降りなさい!!」 祖母の声が高くなる。 「もう、笑わないから!」 「弘田三枝子が、どうして好きなの?可愛いから?」 ヒロタ?ミエコ? 誰の事? 僕は、解らない。 「もう、降りてきなさい!」 -----[あとがき]------------------------------ いかがでしたか? 今回は、旅行ボケのせいもあって、ピンぼけ気味です。 次回は、583系のお話などをしてみようかな、などと思いますが...。 ご意見、ご感想、ご指南等お待ちいたしております。 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