このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください



玉島支所水道局玄関脇



<碑文>
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水道紀功碑
正三位勲一等犬養毅題額

我玉島町二百餘年前填海闢市地質鹹鹵難得清水居民久為患

    ・・・(中略)・・・

大正四年開工翌年六月竣工需費六萬八千六百圓於是清水豊饒
居民始免於患矣因立碑以永紀君功徳
柚木方啓選   奥邨直康書
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《碑文解説》
わが玉島町は二百余年ほど前に海を埋めて町をこしらえたところである。
だから地質は塩浜であるので、なかなか清水が得られないため、住んでいる人々は
永い間困っていた。
ところが、明治45年広瀬正雄君が町長になって、いろいろと苦心の末に、高梁川の
ほとりの上成に井戸を掘り、さらに貯水池を吉浦・狐島の2ヶ所に設け、ここから鉄管
で、町まで水を引き、人家に給水する計画を立て、大正4年に着工し翌5年6月に
竣工することが出来た。この工事費は68,600円余りかかった。
こうして清水が豊かに得られたので、住民はやっと水の悩みが解消したわけである。
こういうわけで、碑を建てて永く広瀬君の功徳を忘れないようにする次第である。

大正13年10月建立の記念碑は、現在倉敷市水道局玉島営業所局舎の玄関横に
移転復元されている。

<参考>
大正年間における玉島町の年平均町費決算額は約135,000円であった。(浅口郡誌)
工事費68,600円は現在の30億円に相当か


<玉島の上水道>
大正4年(1915)の春に着工し翌5年夏に竣工・・・・上成(うわなり)の田んぼの中に
水源用の井戸を掘り,高梁川の伏流水を汲み上げて浄水し、白銀山山頂の貯水槽へ
ポンプで揚げる。これより市街地へ導水管を引き、給水するという方法であった。
設置当時の状況は、水道管の総延長約4Kmあまり、1日の給水量約610キロリットル
(610t)。自家用水道栓380個、共同用水道栓530個、消火用栓64個。年間使用料
総額が14,500円あまり(大正9年実績)であったという。
上水道ができるまでは特に海の中に築かれた新町・土手町・中島町・新樋や上町などでは、
井戸を掘っても塩分の強い水しか得られず、飲料用の真水の入手や確保には永い間に
わたって苦労したと考えられる。
数年前、新町で江戸時代中頃以降のものと思われる石造りの樋の一部を土中から発見
したと聞いた。樋の継目や要所は[しっくい]でしっかり固められていることから,上水道設備
ではないかと想像されたが、今のところ詳しいことはわかっていない。



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