このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください



玉島文化センター玄関脇


【歌碑と由来記】
ぬばたまの 夜は明けぬらし
玉の浦にあさりする鶴 鳴きわたるなり

往古の玉島を詠んだ万葉集のこの歌は天平8年(736)聖武帝の御代遣新羅使の一行が海路浅口の沖を通過した際、一行の一人がこのあたりの暁に鶴のあさり鳴く光景をとらえたものである.


玉の浦が玉島の未だ浅海に浮かぶ島々であった当時のこのあたりを指すことは万葉学者の定説である。

玉の浦が変じて陸地玉島になったのは備中松山藩主水谷候父子の干拓事業によるもので、万冶2年(1659)完成の玉島新田、寛文10年(1670)完成の阿賀崎新田がそれである。

この両新田の間に灌漑と舟運のため運河高瀬通しが,港口までつくられたが、
この歌碑がまさにこの運河のあと近く両新田のただ中に建設されたことは意義深い。
遠い歴史の想いと美しい未来への夢に満ちたこの歌の蒼古にして純一なる調べを
こぞって愛誦したいものである。(説明文より)

【万葉に登場する玉の浦】
遣新羅使の人々が、出帆の時に当っては別れを惜しみ,海上にあっては艱難辛苦に
なげき悲しんでは故郷を懐い、そして時には船上で宴を設けて古歌を吟誦して心を
なぐさめて詠んだ歌115首が,万葉集の巻15の前半に収められている。
歌碑の歌を含めて短歌3首、長歌1首計4首の歌は、玉の浦に碇泊した折に詠まれ
たものと考えられる. 



 物に属けて思ひを発す歌一首 併せて短歌

朝されば 妹が手にまく 鏡なす 三津の浜辺に 大舟に ま梶しじ貫き
韓国に渡り行かむと 直向かふ 敏馬をさして 潮待待ちて 水脈引き行けば
沖辺には 白波高み 浦廻より 漕ぎて渡れば 我妹子に 淡路の島は 夕されば
雲居隠りぬ さ夜ふけて 行くへを知らに 我が心 明石の浦に 舟泊めて
浮き寝をしつつ わたつみの 沖辺を見れば いざりする 海人の娘子は
子舟乗り つららに浮けり 暁の 潮満ち来れば 葦辺には 鶴鳴き渡る 朝なぎに
舟出をせむと 舟人も 水手も声呼び にほ鳥の なずさひ行けば 家島は
雲居に見えぬ 我が思へる 心和ぐやと はやく来て 見むと思ひて 大舟を
漕ぎ我行けば 沖つ波 高く立ち来る よそのみに 見つつ過ぎ行き 玉の浦に
舟を留めて 浜辺より 浦磯を見つつ 泣く子なす 音のみし泣かゆ 海神の
手巻の玉を 家づとに 妹に遣らむと 拾ひ取り 袖には入れて 返し遣る
使いなければ 持てれども 験をなみと また置きつるかも

       反歌二首
  玉の浦の 奥つ白玉 拾へれど またそ置きつる 見る人をなみ

  秋さらば 我が舟泊てむ 忘れ貝 寄せ来て置けれ 沖つ白波

【遣新羅使の旅(補足)】
韓国(からのくに)へ向かう使節団の一行がどんな旅をしていたか、古い資料から
うかがうことが出来る。天平8年に遣わされた遣新羅使の苦難の様子を紹介しよう。



天平8年夏4月には難波三津浜から出帆するよていであったが、舟の準備が
大幅に遅れて6月初めに出帆し,本州の陸地沿いに瀬戸内海を西へと航行して,
玉の浦へは6月半ば頃に碇泊したように思われる。

その後,現山口県防府沖で波浪にもてあそばれて漂流しながらも、やっと北九州に
たどり着き,博多の筑紫館で使節の一人雪漣宅満が伝染病で死去するという凶事が
発生し、さらに対馬では順風を待って5日以上も碇泊を余儀なくされ、前途多難に
不安がつのる.
かくして対馬を後にしたのは秋も終わり9月の初め頃であった。また万葉の歌も
対馬での詠歌を最後にぷっつりと途切れでいる.

秋には帰国する・・…玉の浦にふたたび碇泊して白い玉を拾って土産に持ち帰ろうと
いう夢もはかなく消え去った.
遣新羅使一行は苦難の末,翌9年正月第1陣10名程が奈良の都に帰り着いた。
大使阿部継麻呂は帰国途上病のために対馬で死去している。副使大伴三中もまた
病のため帰京が遅れ、3月になって第2陣として約30名が都に帰り着いた。
奈良の都を旅立ったときは100余人からなる遣新羅使だったが,再び都の地に足する
ことが出来たのは僅かに40人程であったと云う.

玉島と真白珠伝説(補足)】

玉島の名称のいわれに神功皇后にからむものがある。真実かどうかはわからないが
玉島・玉の浦は古くから遠く都にまで知られていたと思われる。



神功皇后が三韓征伐のみぎり、玉の浦に碇泊されたという。この時、皇后は荒磯の
小さな島に降り立たれ、散策を楽しまれた、その折ふと足もとに鶏卵ほどの大きさの
まっ白な玉を見つけられた。
拾い上げて手にのせてかざすと燦然と輝き、光は四方に広がって折りからの夕闇を
明るく照らしだした。皇后はいたく驚きかつ大いに喜ばれて、周囲の侍臣たちに詔していわれた。
『この真白珠は海神が授け給うた瑞祥の珠である。よってこの島を玉島と名付けよう』と・・・


古代の玉島は周囲僅か200m足らずの荒磯をめぐらした、海抜20mそこそこの小さな岩島であったと思われる。それがいつしか「玉の浦」と呼ばれるようになり、奈良時代には乙島・柏島に白砂青松の浜が続き、鶴が群れすむ名勝の地として、遠く奈良の都にまで知られていたものと考えられる。

玉島はその後平安時代初期になって、天台密教を確立した慈覚大師が留学僧として
唐へ渡る途上、玉の浦に碇泊した折,阿弥陀像を彫り玉島の山頂に祀ったという事績
にもとずいて「阿弥陀島」と呼ぶようになったと伝えられている.



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