このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください



玉島文化センター玄関脇



【建立由来碑文】
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水谷候について
備中松山城主水谷勝隆(みずのやかつたか)侯は300余年前、内海の島々を結ぶ干拓を行い、中心に羽黒神社を祀り、高梁川に運河高瀬通しを開通した。侯の卓越した構想は2代、3代と引き継がれて備中松山の玄関玉島港が誕生したのである。
以来200余年にわたり、千石船の出入りする内海屈指の港として繁栄した。勝隆候は勝れた武将として、さらにその仁政は名君として敬慕された。ここに侯の遺徳を偲び、郷土玉島の発展を願ってこの像を建立した。
     昭和61年1月吉日    玉島ライオンズクラブ
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【玉島の開発略記】
寛永19年(1642)勝隆、長尾外新田(32ha)を開発
寛永20年(1643)勝隆、乙島村矢出に船着場を築造して問屋を作る・・玉島港の始まり
正保年間(1644〜47)船穂新田(260ha)を開発(西高梁川の出現)
勇崎内新田(50ha)を開発
万冶元年(1658)勝隆、阿弥陀島に羽黒宮を造営(玉島新田開発成就祈願)
翌年(1659)玉島新田(219ha)が完成
寛文5年(1665)勝宗(かつむね)、羽黒宮社殿改築(羽黒大権現と改称)、清滝寺建立
(玉島新田村に港町が形成される)
寛文6年(1666)勇崎外新田(60ha)・黒崎内浜新田(32ha)を開発
寛文12年(1672)阿賀崎新田(172ha)を開発、高瀬通し築造開始
延宝2年(1674)高瀬通し完成
延宝4年(1676)阿賀崎新田村新町土手に港問屋・蔵屋敷の町造り始まる
[元禄年間中頃(1695頃)完成]
元禄5年(1692)勝美(かつよし)、羽黒大権現に六角石灯籠一対寄進、清瀧寺本堂建立
元禄6年(1693)勝美卒、水谷家断絶




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