このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください



−乙島・戸島神社参道口の左崖下−


【徳富蘆花歌碑(磨崖歌碑)】
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人の子の貝堀りあらす砂原を
平になして海の寄せ来ふ
       徳富健
有名な徳富蘆花先生が
大正七年の秋此海岸に御
来遊の時詠まれた和歌です

  昭和八年十月刻之

・・・・養父ヶ鼻を見下す戸島神社付近に寓居した時の蘆花の日記の一節より
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七月三十日〔火〕晴 午食午睡、さめると潮が満ちている。急に泳ぎたくなり
海に入る。泥でない沙で泳げる。涼しい風が間断なく吹く。
きりぎりすが鳴く。海も好し。裏の丘も好い。稲荷の松が好い。松山が好い。
全くよい景色だ。水島灘は一目だ。
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〔筑摩書房・現代日本文学全集年譜〕より
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大正七年〔1918〕蘆花五十才、五月五日、銀婚式を祝う。岡山県玉島及び
瀬戸内海を探勝し、三十三年ぶりに今治の地を訪う。 
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【蘆花の歌碑案内より】

ここ養父ヶ鼻の地は、もともと瀬戸内海岸でも有数の景勝地で、白砂青松の海辺として全国に知られていた。
また遠浅で,潮干狩、海水浴釣魚などの場として四季を通じて賑わい、海中に点在する飛石、はね石、ごろごろ石などと呼ばれた布石の妙は人々の目を楽しませた。

たまたま明治大正期の文豪徳富蘆花〔1868〜1927〕が訪れたのは大正七年の夏で、滞在数十日、この地の明媚な風光とこまやかな人情を愛した。

人の子の貝堀りあらす砂原を
平になして海の寄せ来る

この一首は当時の景観をえがいた名歌で、一読、今も満ち潮の押し寄せて来る様子が眼前に
浮かんでくる。碑は地元の人々によって、昭和8年10月に建てられたが、同18年以来数次
にわたって養父が鼻沖は干拓せられ陸続きとなり、さらに現在のような工場地帯と変わった。

かえりみてまことに今昔の感にたえない。蘆花には「不如帰」 「自然と人生」 「思い出の記」
などの代表作がある。
              玉島文化協会

【比翼歌碑】

 
昭和29年に戸島神社の松林〔蘆花の日記に云う、松山が好いといったところ〕の中に、うもれた原碑の写しを苦労して採拓し、玉島市観光協会が改築した。

またこの時、再度玉島を訪れた蘆花の愛子夫人は、磨崖歌碑を見上げて往時をしのんで、その感激を次のような歌に託した。

おもひ出能浪よる磯に心飛ふ
詩碑尓命のよみかへる今日

この歌もまた玉島市観光協会によって歌碑を作り、改築した蘆花の歌碑のかたわらに
並べて建て、比翼歌碑として整備された。
右側の碑・・・蘆花歌碑    左側の碑・・・愛子夫人の歌碑



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