このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください



玉島港町周辺

干拓地である玉島は用排水のための水路や広大な遊水池が数多く残っています。その水を上手に
コントロールするために多くの水門が働いていました。今回は現代も姿形を変えて生き残っている水門や
既に姿を消してしまったもの、わずかにその痕跡をのこしているもの、水門と共に生活してきた街角の
風景などをお送りします。どうぞ、水と闘い水と親しんできた往時の面影を偲んでください。

昭和水門(昭和50年3月建造)
元々昭和橋のところにあったが、橋及び水門の老朽化で改築され
橋より北方50mのところに設置された。里見川河口にあって、
川に流れ込む排水を一括して海に放流する。
旧港橋水門
現在は約50m下流に新しく造られた蔵屋敷風水門に
その役目を譲った


新地町水門
高瀬通し及び舟だまりの東側に築かれた堤防上に町屋が並び新地町と称されるようになった。
左側の写真が現在の新地町である。江戸時代には写真の道路は排水路で途中にいくつかの
水門があったのであろうと想像される。
右側の写真は本所方面からの悪水川の放流口として近年改築された水門である。


旧新橋水門
これも現在では蔵屋敷風水門に役目を譲っている
水門の樋柱
江戸時代に使われていた水門の樋柱
玉島歴史民族海洋資料館の玄関脇に置かれている


旧矢出水門
美袋屋(みなぎや)水門とも云う。江戸時代の
石柱と現代のコンクリート製が混在している。
当時使われていた・・・


新樋水門跡
現在では水門は消滅し、排水路の水(写真左)は道路下のトンネルをくぐり抜け、玉島幼稚園前から
暗渠で大正橋東詰で里見川に放流されるようになった。


蔵屋敷風水門(平成7年6月完成 水門の幅20m 高さ3.5m)
(郷土のしおりから紹介)
玉島港は、17世紀後半、備中松山藩主水谷(みずのや)氏の新田開発に伴い、藩の外港として整備が図られ、
北前船が寄港し、高瀬船が行き交う物資の集散地として栄えました。港周辺には白壁の蔵や問屋が立ち並び、
山陽の小浪華(なにわ)ともいわれ備中一の産業港として発展し、文人墨客(ぶんじんぼっきゃく)の出入りも盛んで、
経済・文化の両面で繁栄した港町でありました。
排水機場およびゲート操作室の建物は、往時を忍び、港町の面影をイメージした白壁の蔵屋敷風とし、玉島の
シンボルとして人々に親しまれるよう景観の配慮がなされています。





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