このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください







【勘太橋西詰「大師堂」の石仏】
・・・・・コレラの大流行に脅えた人々は何にすがったか

日本の開国とコレラの上陸
鎖国から開国へと大転換した幕末の日本へ、開港と貿易を求めて欧米諸国の船が頻繁に
来航するようになった。それに伴って招かざる客・・・「コレラ」もまたひそかに日本に上陸し、
無知・無防備の日本国民を汚染し苦しめる事になった。明治に至って日本の海港検疫権の
確立と共に終焉に至ったが、この間実に百年近い歳月に及ぶ。

神仏にすがった当時の民衆


勘太橋西詰め「大師堂」の石仏2体はその悲惨さを物語り伝えるかのように思われる。

明治13年建立の弘法大師像には、真言密教の偉大な修験力にすがり、そして明治20年建立の観世音菩薩像には、大慈悲と衆生救済をすがって、それぞれにその前年にコレラや天然痘などで命を失った人たちの霊を弔い、成仏と供養を祈り、幸いにも生き延びる事の出来た人々の起死回生のよろこびと疫病退散の切なる願いが、こめられているように思う。

当時東川尻地区には、僅か20戸足らずの住民であったと古老は言う。当時の人々の苦心惨澹たる中にあって深い信仰心に支えられて、力強く生き抜いた人々の姿が浮かぶ。


【東川尻「地蔵堂」の石仏】
・・・・・天災と飢饉に苦しんだ民衆は

地蔵菩薩に救いを求める
享保年間から延享の初めにかけて、毎年のように襲来する台風に日本各地では復旧もならない
ままに大きな被害を受け続けた。さらに享保末から宝暦初めにかけては蝗害(いなごの被害)による
不作凶荒が各地で繰り返され、農村は荒廃する。


【道口消防機庫前「地蔵菩薩坐像」の石仏】
・・・・・「間引き・捨て子」で日の目も見ずに賽の河原で迷う幼な子の供養のためか


明和4年(1767)幕府は農民の強訴・徒党・逃散を禁じ、厳しく取り締まった。
また、西国筋の幕領及び諸藩の逃散農民の帰村を厳しく推し進めた。
さらに、農民の間引きの風習も厳しく禁止した。明和6年(1769)には京畿を
中心に諸国で疫病が流行。

宝暦・明和年間(1751〜71)にも打ち続く天災や疫病の流行で、飢餓に苦しみ、
さらに年貢の重圧に耐えかねて村を捨て逃亡流浪する農民が激増した。
また、飢饉に苦しむ農民の多くは跡継ぎの子供だけを残して、口べらしと称して
生まれる赤子を間引きする風習が一段と盛んになった。さらには未熟な堕胎法
により命を失う妊産婦も多かったという。江戸中期の農村人口は江戸初期の
頃より相当減少した。



道口の赤子岩・・・・道口川のほとりで夜中になると「おぎゃあ、おぎゃあ」と赤子の泣き声が
聞こえてくる。同じ所で来る日も来る日も聞こえてくる。
一人や二人ではなさそうである。その哀れな泣き声は人々の同情を呼び、誰言うとなく
「河原の赤子岩」というようになったという伝承もあり、貧農が「間引き」や「捨て子」をしたものと
推測されるが、ひょっとしてこの地蔵菩薩は赤子の子守り役、供養のために建立された
ものであろうかと想像する。



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