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・・・・・コレラの大流行に脅えた人々は何にすがったか
日本の開国とコレラの上陸
鎖国から開国へと大転換した幕末の日本へ、開港と貿易を求めて欧米諸国の船が頻繁に
来航するようになった。それに伴って招かざる客・・・「コレラ」もまたひそかに日本に上陸し、
無知・無防備の日本国民を汚染し苦しめる事になった。明治に至って日本の海港検疫権の
確立と共に終焉に至ったが、この間実に百年近い歳月に及ぶ。
安政コレラ
安政5年(1856)5月、長崎出島に発生したコレラは、6月下旬には江戸に達し更に 8月には、
北海道函館にまで及んだという。 日本全土に広がったコレラの病勢は、激甚で多数の死者を
出し江戸だけでも死者11万人とも36万人とも言われ、大惨害を起こして世に「安政コレラ」と
称された。
明治のコレラ流行
明治10年(1877)を皮切りに12・15〜16・18(赤痢)〜19・23・26・ 28年と流行を繰り返し、
明治時代を通してコレラの死者の総数は37万人以上 とも言われ、日清、日露両大戦の死者数を
はるかに上回ったと伝えている。
岡山県下では、明治10・12・19・23・28・35年と周期的な大流行を繰り返した。
なかでも明治12年3月に四国松山で発生したコレラは四方に拡散して、5月下旬には、児島郡
南部と浅口郡西部に上陸、岡山に飛火してまたたくまに県内に広がった。11月までに患者
約1万人、そのうち死者5千人という猛威にさらされ、年末に至っても衰えなかったという。
さらに明治19年には、かつて無い大惨害が日本全土を駈け巡った。
コレラの流行に追い打ちをかけるように、天然痘の大流行、さらに赤痢・腸チフスの流行と4種類
もの伝染病が時を同じくして日本全土に蔓延して、年間の死者は、14万人とも言われた。
神仏にすがった当時の民衆
勘太橋西詰め「大師堂」の石仏2体はその悲惨さを物語り伝えるかのように思われる。
明治13年建立の弘法大師像には、真言密教の偉大な修験力にすがり、そして明治20年建立の観世音菩薩像には、大慈悲と衆生救済をすがって、それぞれにその前年にコレラや天然痘などで命を失った人たちの霊を弔い、成仏と供養を祈り、幸いにも生き延びる事の出来た人々の起死回生のよろこびと疫病退散の切なる願いが、こめられているように思う。
当時東川尻地区には、僅か20戸足らずの住民であったと古老は言う。当時の人々の苦心惨澹たる中にあって深い信仰心に支えられて、力強く生き抜いた人々の姿が浮かぶ。
【東川尻「地蔵堂」の石仏】
・・・・・天災と飢饉に苦しんだ民衆は
地蔵菩薩に救いを求める
享保年間から延享の初めにかけて、毎年のように襲来する台風に日本各地では復旧もならない
ままに大きな被害を受け続けた。さらに享保末から宝暦初めにかけては蝗害(いなごの被害)による
不作凶荒が各地で繰り返され、農村は荒廃する。
地蔵菩薩坐像
地蔵堂内の「地蔵菩薩坐像」は享保11年(1726)に建立
されたもののようで、多分に享保の天災と飢饉に苦しんだ
人々が、多くの犠牲者の霊をとむらい、なおかつ飢饉に
耐えて生きているものへの救済を切に祈願したもので
あろうと考える。
坐像のすぐ下の台石の正面中央に「法界」の文字を刻み、
その右に「二世」、左に「安楽」と刻まれた文字が見える。
この世でも、あの世でも、安心・愉楽の日々であることを
切望した当時の人々の姿が浮かぶ。
地蔵菩薩立像
さらにもう1体の「地蔵菩薩立像」は、その建立の年代が
はっきりしないが、前述の坐像の台石が上下2段になっており、
下の台石側面に「天明4年(1784)」の文字が見える。
これは世に「天明の大飢饉」と称された時期に当たる。天明
年間の初め頃から長雨や冷害などの天候異変による凶作で
全国に大飢饉が発生し、餓死するもの数知れず、天明3年には
飢餓に苦しむ民衆が諸国で暴動を起こした。
この地蔵菩薩立像もまた、飢餓にあえぐ当時の農民たちが、
世の無常を嘆き、二世安楽を願い地蔵菩薩の大慈悲と衆生
救済にすがったものであろうと推察する。
【道口消防機庫前「地蔵菩薩坐像」の石仏】
・・・・・「間引き・捨て子」で日の目も見ずに賽の河原で迷う幼な子の供養のためか
明和4年(1767)幕府は農民の強訴・徒党・逃散を禁じ、厳しく取り締まった。
また、西国筋の幕領及び諸藩の逃散農民の帰村を厳しく推し進めた。
さらに、農民の間引きの風習も厳しく禁止した。明和6年(1769)には京畿を
中心に諸国で疫病が流行。
宝暦・明和年間(1751〜71)にも打ち続く天災や疫病の流行で、飢餓に苦しみ、
さらに年貢の重圧に耐えかねて村を捨て逃亡流浪する農民が激増した。
また、飢饉に苦しむ農民の多くは跡継ぎの子供だけを残して、口べらしと称して
生まれる赤子を間引きする風習が一段と盛んになった。さらには未熟な堕胎法
により命を失う妊産婦も多かったという。江戸中期の農村人口は江戸初期の
頃より相当減少した。
道口の赤子岩・・・・道口川のほとりで夜中になると「おぎゃあ、おぎゃあ」と赤子の泣き声が
聞こえてくる。同じ所で来る日も来る日も聞こえてくる。
一人や二人ではなさそうである。その哀れな泣き声は人々の同情を呼び、誰言うとなく
「河原の赤子岩」というようになったという伝承もあり、貧農が「間引き」や「捨て子」をしたものと
推測されるが、ひょっとしてこの地蔵菩薩は赤子の子守り役、供養のために建立された
ものであろうかと想像する。
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