冨田地区には金毘羅詣に関する石碑を若干見ることが
出来る。左図の石灯篭もその1つである。
前回掲載したコラム「冨田地区の石仏たち」のマップに
載っている地蔵堂の脇にその姿を見ることが出来る。
裏面の刻字から幕末の天保12年,西川尻
(竹川川尻地区)の人々が、当時道越え村の西端から
1.5Km離れた東端へわざわざ何のために建立した
のかと疑問がわく。
江戸後期には全国的に「おかげ参り」と称して農民の寺社詣が大変盛んであったが、
瀬戸内沿岸では金毘羅詣が隆盛であったと考えられる。
記録もなく伝承も乏しい中での憶測に過ぎないが、金毘羅信仰にもとづく「金毘羅講」なる
組織が作られ、乏しい中で資金を出し合い積み立てて、毎年何人かの人が代表として
金毘羅宮に参詣し、お札をいただいて持ちかえり講内の人々に配るという風習があった
と思われる。
西川尻のこの付近から小さな川舟で道口川を下り玉島港から海船で多度津港に上陸して
金毘羅宮へ・・・一生に一度の思い出の旅・・・船着場の目印であり、住み慣れた村の
出入り口の目印、出発にあたっては道中の安全を祈り、帰着に際しては無事を感謝した
のだろうかと想像する。
反面冨田地区には、金毘羅大権現の他に吉備津宮などとの併記の石灯籠も見られ、
大抵集落の出入口と思われる場所に据えられている。旅人の道しるべ、或いは魔除けや
疫病退散などとの関連も考えられるがよくわからない。
牛神・・農耕に欠かせない牛馬の死をいたみ、供養のためと考えられる