このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
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新町通り(まちなみ保存地区)
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寛文10年(1670年)松山藩主水谷侯によって、阿賀崎新田新町堤防の汐止工事が完成し
阿賀崎村が独立して、堤防上に徐々に問屋がふえ港町が形成され、天領になった元禄の
最盛期には、東綿屋、大国屋、西綿屋、米屋、西国屋、関屋など43軒の問屋が軒を並べ、
甕(もたえ)の港が大いに繁昌しました。
問屋が仲買人を通じて取引した主な商品は備中綿で、それは北前船による北海道からの鰊粕、
ほしかを肥料としていました。
新町問屋街の東西には総門があり、海側には船着場と土蔵の倉庫群が建ち、夜は門を閉じて
夜警が廻り、町を防護しました。
ここに建つ元西国屋の土蔵は内側がなまこ壁で、北前船で賑わった当時の繁栄を偲ぶよすがと
して、永く保存さるべき数少ない歴史的建造物であります。
港は明治になってこれまでの賑わいを失いましたが、豊かな文化的遺産を遺しました。
この倉は現所有者の中野開一氏によって、蔵の中コンサートなど有意義な文化活動に
開放されています。
北前船による海上貿易で隆盛を誇った新町問屋街はその姿を徐々に失おうとしています
現在も残されている家屋には上のような説明板が掛けられているのを見ることが出来ます
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