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平安時代の末期、源氏と平家は互いにその覇権を競っていたころの浅口郡は有力寺社や平家の
荘園となっていました。
それらの荘園は「郷」または「保」と呼ばれ、この時期を「郷保時代」ともよんでいます。
(1) 安徳天皇御臨幸と鴨方・・備中誌より
「備中誌」にはこの頃の様子について次のように記されています。

『慈覚大師以来何方より免除という義もなく 無本寺 にて心侭に支配仕り来り、
 其後、安徳天皇(1181〜1185)此国に臨幸これ有る節、当山へ御幸ありて山内にしばらく
 御滞留のよし申し伝う。
 即ち山中に「穴泉の御所」という処ありて、今、アナズミといい誤れり。境内の下に「帝」と
 いう処もあり、これも今はミカタといい誤れり。すべて此処、王城を表して此地をも六条院
 などといい、また四条原という処に京都祇園を勧請して氏神とし、北には加茂大明神即ち
 鴨方にこれを祀る。
 また、比叡山にならいて丑寅(うしとら)の方角に養子山(遙照山)という高山に釈迦薬師を
 安置し、麓に山王21社毎年四月山王祭の規式あり。
 また同村西谷山清水寺千手観音寺は、いわゆる京都清水寺に准ず。
 此の外、因縁これ有る由いえども詳ならずという。
 此のあらまし、元文3年(1738 江戸時代中期)10月、岡山候へ書上し事の趣なりとぞ』
遙照山(養子山)・・金光町・鴨方町・矢掛町にまたがって聳えている


(2) 平家一門繁栄の時代と備中国
『日本秋津嶋はわずかに66ヶ国、平家知行の国30余ヶ国。既に半国に超えたり。』
(平家物語)、天皇の外戚となり、皇子誕生で一挙に権勢を掌中にした平家一門は、
治承3年(1179)以降、にわかに平家領荘園を全国にわたって拡大し、「平家にあらざれば
人にあらず」とまで豪語するほどになりました。
備中一円もまた平家の荘園に組み込まれたのです。
治承4年(1180)6月、にわかに京都から摂津福原に遷都を強行した平清盛は、その年の9月、
わずか2才で即位した安徳天皇並びに父君高倉上皇とともに安芸の厳島神社へ参詣しました。
安徳天皇即位の礼と平家一門の武運繁栄を祈願するためでありました。
摂津兵庫の港を船出し、備前の国児島の泊りに至り、仮御殿を設けて宿泊した後、さらに
甕(もたい)ノ海を経て大島北側の水道を通り、備中国 六条院 へ立ち寄りしばらく滞在された後、
安芸へ向かわれたということです。

このころ平家は安芸の国を本貫地として、播磨・丹波・淡路・阿波・讃岐・
備中など瀬戸内東部の国々を荘園として組み入れ、さらに瀬戸内水軍を
味方に引き入れて、京都をはじめ東国の源氏勢力との防衛巻き返し地点
としての体制作りができかけました。
瀬戸内海沿岸は京都にも近く、また水陸の便に恵まれた要地として、
六条院付近に京都を模した新しい都を造ることを考えていたのではないか
と想像をたくましくするのです。

しかし、翌養和元年(1181)平清盛は没し、その後は急坂を転がり落ちるように源氏に追われて
北九州へ逃れることとなって、新都の夢もはかなく消え去ったのではないかと考えられます。
そうした中での夢のなごりが今もなお点在して残っていると思われます。
明王院・・鴨方町六条院の交差点から南へ進入していくと、巨大な寺院が見えてきます。
(3) さねもりさま
備中国の山地では「虫追い行事」に「さねもりさま」という麦わらで作った等身大の人形に、
虫のついた作物を結びつけて祈祷した後、川へ流しに行くという風習がありました。
なんでも斉藤実盛が稲に躓いて倒れたために討たれたという言い伝えが残っています。
無念の怨みのうちに死んだ実盛の霊魂が、稲虫となって作物にたかるのだと信じられるように
なったと云われています。
斉藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)は、もと東国の武士で初め源氏に仕えていましたが、
後に平家に迎えられて武将となりました。


寿永2年(1183)5月、北陸道進撃に向かった平家10万の大軍は
越中砺波(となみ)の倶利伽羅峠(くりからとうげ)の合戦で木曽源氏
義仲軍の火牛攻めにあって惨敗しました。
斉藤実盛もこのとき平家方の武将として、敗走する平家軍を叱咤激励
しながら、追撃してくる
源氏軍と華々しく戦っていましたが、田植えの終わった水田の稲に
足をとられ、倒れたところへ源氏の兵士多数が襲いかかり無念の
最後をとげました。
陸上を逃げた平家の将兵は落人となって山間僻地へ散っていきました。
斉藤信実主従は平家の荘園であった浅口郡大島庄を頼って落ちのび、
柴木の(実盛)の里へ隠れ住んだと伝えられています。
後世、斉藤別当実盛の墓を建立してその子孫が現在も斉藤姓を名のり、
この地を「実盛」と名づけています。
(4) 那須与一と井原
弓の名手であった源氏の武将那須与一は、屋島合戦の時、平家方から漕ぎ出した小舟の扇の
的を見事に射落とした話は有名です。
与一はその功績により備中国「荏原の庄」を与えられ、一族とともに井原に移り住んだと
云われ、また那須与一及びその一族の墓が井原市北部に今も残っています。


第2回 地名にまつわる伝承・伝説      第4話 安倍晴明と芦屋道満


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