このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の名前は爪崎です

私は新倉敷駅南土地区画整理事業施工地区の土地です。私の名前は「爪崎」です。

 今から八百年ほど前の源平水島合戦の行われたころは、まだ海の底にいましたが、
その後今から340年ほど前の万治2年に爪崎新田220町歩が人間によって干拓され
完成しました。私はそのとき呱々の声をあげ、私の属する地域は以来「爪崎」と呼ばれ
てきました。

 明治維新までは丹波亀山藩に属して、ずうっと爪崎村と言われていましたが、明治22年
長尾村に合併されて「大字爪崎」と呼ばれ、以来大正14年に長尾村が長尾町となり、
昭和28年に玉島市となり、「玉島爪崎」となりました。

 昭和42年に倉敷市となりましたが、私の属する地域はなんの不思議もなく「玉島爪崎」と
呼ばれ、「爪崎」という文字は永遠に残って行くものと思っていました。

 ところが、ここにいたって私は340年の歴史から抹殺されようとしているのです。私が「爪崎」
ではなくなるらしいのです。人間どもはいとも簡単に歴史を踏みにじろうとしています。

と言いますのは、明治24年に当時山陽鉄道株式会社という会社が山陽線という鉄道を造り、
私の上を「陸蒸気」を走らせ、その停車場の駅ができたのですが、その駅の名前は、当時
長尾村にできたわけですから、「長尾駅」または「爪崎駅」ならわかるのですが、なんと「玉島駅」
でした。玉島駅が長尾村にあってなんの不思議もなく何の苦情もなかったようです。

 昭和50年3月10日、山陽新幹線という高速高架鉄道が岡山博多間に開通し、玉島駅に
新幹線駅が併設され、玉島駅は「新倉敷駅」と改称されました。

 新幹線駅ができたため、市は他の新幹線駅所在市に負けまいとして、私を区画整理と称して
掘り返し、さんざんに切り刻んで、私の上に住んでいた人々は随分苦労させられたようです。
そうして、あげくの果てに、私の名前を変えようとしています。なんでも、新倉敷駅前に私がある
ものですから、「倉敷市玉島新倉敷駅前何丁目」という長たらしい難しい漢字ばかりの名前に
変えようとしているのです。私は歴史の上から殺されようとしています。

 軒を貸して母屋を取られるということわざがありますが、私は「爪崎」なのです。「爪崎」という
名前だけはなんとか残して、せめて倉敷市玉島爪崎駅南何丁目ぐらいなら私も我慢できるのですが。
新倉敷駅ができたから、おまえは新倉敷駅前何丁目になれとは全く納得できません。長尾に
玉島駅があったように玉島爪崎に新倉敷駅があってもいっこうにかまわないのではないでしょうか。 

 5月30日の毎日新聞余録先生も5月27日の同紙発言席の「地名は過去と現在をつなぐものである。
地名を大事にしない国民に将来はない。」という記事を引用されて警告されています。




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