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萩旅行記 
2009年1月3日() <松陰神社、東光寺、武家屋敷群、萩博物館、萩城址>


<維新発祥の地 萩へ>

 三が日最終日の1月3日。下関から北に30kmのところにある父方の実家に帰省していましたが、思い立って萩へ行ってみることに。パソコンも本も下関の家に置いてきてしまったので、やることがなくなってしまったというのが出かけようと思った一番大きな理由ですが、萩は10年以上行ってなかったのと、下関よりは父方の実家の方が萩に近くて便利、というのもあります。何しろ萩は下関から電車(というか汽車)で3時間もかかるのだから。まあ、父からの実家からでも2時間20分で、そんなに変わるものではありませんが。。

 7時15分に父方の実家を出て、最寄駅である山陰本線小串駅まで。母が車で送ってくれましたが、駅までわずか3分でした。下関からこの小串駅までは、下関近郊区間ということで電車(というか汽車)の本数もそこそこ多いです。大体1時間に1本〜2本はあります。ところが、小串以北になると本数が激減し、2時間に1本とかそういう世界になってしまいます。だから乗り過ごすと大変。そもそも「山陰本線」と言いながら、下関から萩までは普通列車しか走っていないのが寂れ具合を象徴しています。昔は一日一往復だけ「いそかぜ」という特急が走っていましたが、あまりにも利用客が少ないので2005年に廃止になってしまいました。とにかく、萩への交通アクセスは陸の孤島と言っても過言ではないくらい、ものすごく不便です。

 7時33分発の滝部行きに乗車。響灘と日本海に沿うように走るので、景色はなかなかのものです。「長門ブルーライン」と呼ばれるのが分かります。今考えると、下関小串間は数えきれないほど乗ったことがありますが、小串以北に汽車で行くのは初めてでした。いつもは大体車だからなぁ。


<山陰本線小串駅>
 
<海沿いの景色>

 滝部駅と長門市駅で乗り換えて、9時37分に東萩駅に到着。萩の中心駅は萩駅ではなくて一つ先の東萩駅です。長門市駅で乗り換えた電車は一両のレールバスで、そんなに乗客が少ないのかと唖然としました。調べてみると東萩駅の一日の乗客数は400人。人口5万人の都市の玄関口がこの乗客数とは・・・。ちなみに小串駅が470人、下関駅が11500人なので、これらと比べるといかに東萩駅の乗客が少ないかが分かります。駅舎は立派なのに。

 今日は朝食を食べてこなかったので、乗り換えの途中駅に駅弁があればそれで、なければ東萩駅でと考えていました。まあ予想していた通り滝部や長門市には駅弁はなかったので、東萩駅の喫茶店でサンドイッチでも食べようと思ったわけです。東萩駅には20年くらい前に伯母と来たことがあって、ここの2階にある喫茶店というかレストランみたいなところでカレーライスを食べたことがあります。今考えると多分レトルトのカレーだったと思いますが、当時は腹が減っていたのでそのカレーがやけに美味しく感じたものです。で、今回も9時半に着いて改札を出て早速レストランへ・・・と思ったら、もはや跡形もなくなっていました。。2階に上る階段は完全封鎖。何てこった。しかもこの駅にはコンビニはおろかキオスクすらなく、一体どうしろと。駅前もホテルがあるくらいで、朝食になるようなものを売っている場所なんて皆無です。もっと都会だと思ってた。。


<東萩駅>
 
<街を流れる川>

 仕方なく朝食を諦めて、まずは駅の東側にある松陰神社へ。神社までは駅から歩いて10分くらいなので、その途中にコンビニがあったらおにぎりでも買おうと思っていましたが、コンビニなんてありゃしません。腹減ってどうにかなりそう。まあそれは置いといて松陰神社へ。ここはあの吉田松陰を祀った神社です。正月ということもあって、初詣客が結構いました。僕も初詣ということでお参り。


<松陰神社>
 
<松陰神社拝殿>

 松陰神社の境内には松下村塾や松陰が幽閉された旧宅がほぼそのままの形で残っています。松下村塾と言えば、明治維新のスーパースター達を生んだ場所として有名ですが、実際見てみるとかなり小さくて狭いです。でもこの小さな場所で、木戸孝允や高杉晋作、伊藤博文に品川弥二郎、山形有朋、久坂玄瑞などなど、その後の日本を作り上げていった人物たちが一堂に会して学問していたというのは、ちょっとしたロマンでもあります。今の日本の半分くらいはこの松下村塾で生まれたと言っても過言ではないかもしれません。ものすごいエネルギーが充満してたんだろうなあ。


<松陰が幽閉された旧宅>
 
<ここに幽閉されていた>

<松下村塾>

<松下村塾の講義室>

 ちなみに境内には「吉田松陰歴史館」なるものがあって、ここは蝋人形で吉田松陰の一生を開設してくれます。過去何度か入っているので今回は入りませんでしたが、何というか独特の面白さがあるので、もし萩に行って興味がある方は入ってみることをお勧めします。きっと昭和臭がぷんぷんするから。

 松陰神社から5分くらい歩いて伊藤博文旧宅へ。旧邸と別邸の二つあって、別邸の方は東京での住まいを移したので豪華ですが、旧邸の方は茅葺で質素です。伊藤博文はこの旧邸で14歳から27歳まで過ごし、ここから松下村塾に通ったそうです。


<伊藤博文旧宅(こちらは別邸)>
 
<旧宅の隣にある伊藤博文の像>

 伊藤博文旧邸から少し進むと、玉木文之進旧邸。彼は吉田松陰の叔父にあたり、松下村塾の創始者です。だからこの地は「松下村塾発祥の地」ということにもなるらしい。


<道を歩く>
 
<玉木文之進旧邸(松下村塾発祥の地)>

 ここからは少し坂道を歩いて、吉田松陰生誕地・墓地へ。生誕地からは萩の街が一望できます。右の方で少しもっこりしている山が、その麓に萩城が築かれた指月山です。そしてその手前が萩の城下町にあたります。こうやって見ると、ここから明治維新に関わる人間が多数出たとは思えないくらいこぢんまりとした街のように思えます。


<萩の街を望む>

 吉田松陰が生まれた場所には松陰とお付きの者である金子重輔の像が立っていて、その像に書かれている「吉田松陰先生」の文字は佐藤栄作によるものだそうです。まあ、吉田松陰は幕末の悲劇のスターだし、佐藤栄作も山口の人間だからねぇ。驚いたのは吉田松陰は29歳で亡くなっていたということで、そんなに若くして先生と呼ばれ、有能な人材を多く育てたのかと思うと自分が完全に負けているような気がします。あと、像の吉田松陰はどう見ても29歳に見えないし。


<松陰先生とお付きの人>
 
<佐藤栄作の字>

 像の隣には吉田松陰をはじめとする吉田家や、幕末に活躍した志士達の墓が並んでいます。ここの松陰の墓は遺髪が納められているだけで、本物の松陰の亡骸は世田谷の松陰神社にある墓に埋葬されているということです。そういえば世田谷の松陰神社にも行ったことがあったけど、あの時墓には参ったかどうか・・・。


<墓が並ぶ>
 
<吉田松陰の墓>

 さらに歩いて、今度は東光寺。東光寺は長州藩の藩主である毛利氏の菩提寺で、珍しく黄檗宗の寺院。寺の裏には歴代藩主の墓地があり、いくつもの石灯籠が並ぶ景観はおどろおどろしくもあります。石灯籠は藩士が寄進したもので、全部で500基以上あるそうです。ちなみにここにある墓は歴代藩主のうち、3代以降の奇数代の藩主とその奥様のもの。偶数代の藩主夫妻は大照院という臨済宗の寺に埋葬されているそうです。今で言う分散投資みたいなもんか?


<三門>

<大雄宝殿>

<歴代藩主(奇数代)の墓地>

<石灯籠が並ぶ>

 東光寺から再び歩いて松陰神社に戻り、これで東萩駅の東側の散策は終了。しかし本当に腹が減ってしまった僕は、もう居ても立ってもいられなくなり、何でもいいから早く食わせろとイライラが頂点に達してしまいました。こんなこと初めてです。なぜ萩には飲食店がないのだ?と、萩に対しても八つ当たり的な感情が芽生えてくる始末です。普段だったら頑張って萩名物の海産物でも食べようとするところですが、今回に限ってはもうそんなのどうでもいい。とにかく早く何か食べるものを・・・ということで、携帯で調べてみると近くにモスバーガーを発見。もういい、この際モスでもいい。途中川沿いにあった品川弥二郎の生誕地をさくっと見て、早歩きでモスバーガーに向かいました。


<品川弥二郎生誕地>
 
<ようやく見つけたモスバーガー>

 まあとにかくこの萩という町、観光地というより都市として飲食店が少なすぎます。モスバーガーがあったからいいものの、市内にあるファストフードは調べたところ、何とこのモスバーガーのみ。マクドナルドもケンタッキーも潰れたらしい。何てこったい。ファミレスはガストが1件。5万人都市としては何とも寂しい限りではあります。そういうわけでモスバーガーが近かったことは不幸中の幸いでしたが、ファストフードが少ないからか正月だからか、店内は大混雑でした。その様子を見て僕は、「おれが腹減って死にそうだというときに、お前達は普段来ないようなモスバーガーに来おって・・・そんなにハンバーガーが食いたいか、北浦の田舎者どもめが!」という、今考えると申し訳ありませんというしかない理不尽な怒りが込み上げてきました。ちなみに北浦とは山口の山陰地方のことを言います。腹が減って死にそうだったんです。お許しください。

 まあでも本当に混雑は酷くて、電話注文で予約を受けたり、一回の注文でハンバーガー10個とか買って行ったりするので、僕が頼んだハンバーガーはなかなか出来ませんでした。最初は店内でゆっくり食べようと思いましたが、てんやわんやの狭い店内で一人食べられる訳もなく、テイクアウトすることに。結局20分ほど待たされてようやくハンバーガー2個が手元に届きました。そして隣にあった紳士服のはるやまの駐車場で、とりあえずハンバーガーにがっついて空腹を満たす自分・・・。傍から見ると何とも寂しい風景ですが、本当に腹が減ってどうにかなりそうだったのでそんなことも言ってられず。でもこれで何とか平常心を取り戻すことができました。やっぱり食事は重要ね。

<武家屋敷群と萩城址>

 空腹を満たして落ち着いてからは、歩いて武家屋敷方面へ。途中に長州藩の藩校だった明倫館跡があったので見物。明倫館は水戸の弘道館、鹿児島の造士館と並んで、全国的にも大きな規模の藩校だったそうです。建物は今も市立の明倫小学校の一部として使われているのが驚きです。歴史ある建物で学べるなんて羨ましい。


<明倫館門跡>

<今も使われている明倫館の建物>

 左手に萩市市庁舎と山口県総合庁舎、右手に山形有朋の像を見ながら、武家屋敷へ。武家屋敷の塀の上に見える夏みかんが萩らしさを醸し出しています。


<江戸屋横丁>

<菊屋横丁>

 まずは武家屋敷の一角にある「木戸孝允(桂小五郎)旧宅」へ。木戸孝允が生まれ、8歳頃まで過ごした家です。彼は維新三傑の一人ですが、この人は他にも名前が多過ぎてなかなか覚えられません。彼はもともと金持ちだったみたいで、旧邸も広く豪華です。


<木戸孝允旧宅>

<居間>

<木戸孝允誕生の間>

<居間から見た庭>

 続いて通りの向こう側にある「高杉晋作旧邸」へ。さっきの木戸孝允旧宅と比べると、高杉晋作邸は部屋数も少なくて質素です。


<高杉晋作旧邸>

<高杉晋作が使った井戸>

 高杉晋作邸の向かいには総理大臣を務めた田中義一誕生の地があり、少し行けば久坂玄瑞の旧宅、山形有朋の生誕地、さらには午前中に見た伊藤博文旧宅と、よく考えてみるとこれは凄いことだと思います。さらにそれが例え時勢だったとしても、この狭い地区で歴史に名を残す人材がたくさん生まれているのが不思議です。萩はやっぱり凄いところだったのかと、改めて感心しました。だからこそ、街の寂れ具合が余計に際立ってしまいます。兵どもが夢の跡、じゃないけれど・・・。

 城下町の一角にある萩博物館へ。ここは平成16年に出来たという、比較的新しい博物館ですが、中身はよく出来ていました。そうそう、萩に必要なのはこういう拠点的な博物館だったと。この博物館を見て、ようやく歴史の街萩としての面目躍如という気がしました。常設展示は500円ほどしましたが、それでも毛利家と明治維新の歴史がよくまとまっていて見る価値がありました。なぜ萩で明治維新のヒーロー達が生まれたか、それは藩の教育、特に外遊(この場合は外国ではなくて他の藩に出向くこと)が充実していたからだ、ということを係のおじさんが説明してくれて、なるほどと思いました。これは「教育に熱心な山口県」という今の状況にもつながるのかもしれません。最も、山口県は難関大学への進学率が全国でも極めて低いですが。。東大とか県の合計で10人未満とかだし。

 博物館を見ていると、充実していたのは高杉晋作と吉田松陰の展示で、特に高杉晋作に関しては一部屋まるごと使っての展示でした。萩はどうやら高杉晋作をヒーローとして扱いたいようです。業績としては維新三傑と言われる木戸孝允、初代総理大臣の伊藤博文、元勲として長らく影響力を保持した山形有朋の方が上のような気がしますが、どうも彼らの人気は今一つらしい。この辺、本当に日本人っぽい。頼朝よりも義経、徳川家康よりも織田信長、大久保利通よりも西郷隆盛、維新前に死んでしまった吉田松陰や坂本竜馬、高杉晋作と、そういう人物が好まれるのは、体制に異を唱えるも志半ばで死んでいった人物を英雄視する傾向があるからじゃないかと思います。判官びいき、というわけじゃないけれど。。


<萩博物館>
 
<中もまだ新しい>

<夏みかんが植えられている>

<夏みかんソフト>

 さらに海の方へ進んで、天樹院墓所へ。ここは毛利元就の孫で、長州藩初代藩主である毛利輝元とその妻の墓。輝元は関ヶ原の戦いにおける、西軍の名目上の大将でもあります。2代以降は東光寺や大照院に墓があるので、初代だけは別格ということでしょうか。


<天樹院>
 
<初代藩主毛利輝元とその奥方の墓>

 そして一番海に近い場所にある萩城址へ。隣はもう日本海です。

 

 萩城は元々五層の天守閣があるなど壮大な城だったそうですが、明治初期の廃城令で全て取り壊されてしまい、今残るのは石垣だけになっています。ここに城がそのまま残っていたら、海と山とでいい画になっただろうに。


<本丸跡>
 
<萩城址全景>

 萩城址の時点で時刻は3時半を回っていて、そろそろ帰らないといけない時間になってしまったので急いで東萩駅へ。駅までは4kmくらいありますが、汽車の時間が4時18分なので結構急がないと大変なことになります。というのも、この汽車を逃すと次は1時間半になってしまうから。本当に山陰本線は列車の本数が少ないので、一本列車を逃すと命取りになります。今回の場合は、一本逃すと下関に着くのが9時前になってしまうという・・・。

 途中で藩の監獄である野山獄と岩倉獄跡を見物。二つの獄跡は道を隔てて向かい合っていますが、野山獄が上級武士用、岩倉獄が下級武士用ということだそうで、吉田松陰がアメリカ密航に失敗したときも、吉田松陰は野山獄へ、松陰のお付きであった金子重輔は岩倉獄へ入れられたそうです。


<野山獄跡>
 
<岩倉獄跡>

 そして何とか4時10分に東萩駅に到着。夏みかん関係のお土産を買おうと思いましたが、駅にお土産屋なんてものはなく、時間もないので諦めました。街中にお土産を置けとは言わないけど、せめて玄関口である駅にはお土産屋くらい置いてほしいなぁ。4時18分の汽車に乗って、行きと同じように長門市、滝部で二回乗り換え。帰りは下関の家まで戻るので、小串で降りることなく下関へ。下関に到着したのは7時過ぎでした。地図で見ると近いのに、やっぱり遠い。。


<滝部駅で>
 
<日が暮れる>

 10年振りに萩を訪れて、改めて萩は歴史遺産が豊富だと感じました。全国何処を見ても、これだけの歴史上の人物が生まれた土地はないでしょう。たとえそれが結果論としてそうなったとしても。この小さな街の出身者達が今の日本を作っていると考えると、何とも不思議な気がします。残念なのは街が中途半端に古いことで、昭和40年代で時が止まっているような印象です。都市としての立地条件が悪いのは分かりますが、歴史的に大きな価値がある街なのだから、山口県出身者として今後いい方向に進んで行くことを願います。


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