京都・奈良旅行記 3
2011年1月8日() 3日目 <橿原・飛鳥路サイクリング>


<橿原神宮と久米寺>

 6時起床。今日は一日かけて飛鳥の地を自転車で回る予定です。外は良く晴れていて、絶好のサイクリング日和になりそうです。

 まずは朝食。ホテルには無料の簡易バイキング朝食が付いています。種類は多くありませんが、無料ならなかなかです。ただ、ミネストローネのようなスープはいまいちだったかな。バイキングだと取り過ぎてしまうため、朝から食べ過ぎてしまいました。食後部屋に戻って準備をし、7時前に出発。


<無料の朝食>

<朝のJR奈良駅前>

 行きはJRを使わないけれど、ホテルの目の前が奈良駅なので、とりあえずJR奈良駅に寄って行くことに。4年前に来た時は旧奈良駅舎は封鎖されていましたが、今では観光案内所やビジターセンターとして使われているようです。


<朝のJR奈良駅>

<観光案内所になった旧JR奈良駅>

 JRの奈良駅から歩いて近鉄の奈良駅へ。7時25分発の快速急行難波行きに乗って二駅先の大和西大寺まで行き、大和西大寺で橿原線の橿原神宮前行きに乗り換え。ここは奈良だし、今日は土曜日なので人もそんなに多くないかと思ったら、意外にも多くの人がいて驚きました。奈良は関西圏で人が多いということを忘れてた。


<近鉄奈良駅改札>

<大和西大寺で乗り換え>

 橿原神宮前行きの車窓は郡山辺りまでは都会や住宅地の風景ですが、郡山を過ぎた辺りから田んぼや畑が見え始め、のどかな風景になります。窓から差し込んで来る朝の日差しが気持ちよい。窓の外の景色に目を向けつつ、8時5分に橿原神宮前駅に到着しました。


<橿原神宮前駅に到着>

<神社を意識した橿原神宮駅>

 メインイベントは橿原神宮駅の前にあるレンタサイクル屋で自転車を借りて飛鳥の地を駆け巡ることですが、レンタサイクル屋の営業は9時からなので、それまでは歩いて駅名の元にもなっている橿原神宮へ参拝することに。駅からは歩いて5分程すると、橿原神宮の巨大な敷地が見えてきました。第一鳥居をくぐり、まだ誰もいない広い参道を歩いて本殿まで。


<橿原神宮第一鳥居>

<広く長い参道が続く>

<新しく寄進された灯籠>

<「犬」の字体が神社っぽくない>

 橿原神宮は初代天皇の神武天皇と皇后を祭神としている、かなり由緒ある神社。神武天皇がこの地で即位したという伝説があることから、明治23年に創建されたそうです。本殿は京都御所の賢所(かしきどころ)を移して建てられたことからも、格の高さが分かります。天皇家のにゆかりのある神社なので境内も広く立派。まだ朝早く、ほとんど人もいなかったので、広い境内をゆっくりと歩き参拝してきました。


<拝殿に向かう>

<畝傍山と外拝殿と広い境内>

<巨大絵馬>

<外拝殿から内拝殿を眺める>

 橿原神宮はかなり広く、北側の畝傍山の麓辺りは公園になっています。畝傍山と言えば大和三山の一つであり、歴史的にも有名な山です。歴史好きにはたまらない。畝傍山の標高は約200mと低く、登山道も整備されていて登りやすそうだったので、登ろうかどうか結構迷いましたが、この後のことを考えて今日は止めておきました。朝のジョギングをしているおじさんおばさんが結構登ってたから、そんなにきつい山ではないとは思うけれど、張り切り過ぎて足を痛めてしまったら困るのでまたの機会に。


<畝傍山に登ろうか登るまいか>

<結局登らずに畝傍山を眺めるだけ>

 レンタサイクル屋が開く9時までもう少し時間があったので、橿原神宮のすぐ南にあった久米寺へ。飛行中に洗濯をしている女性のふくらはぎに見とれて法力を失い墜落してしまったという久米仙人が建てた寺だそうです。ふくらはぎに見とれて墜落するとは・・・。まあ、ふくらはぎの魅力は分からないでもないので何とも言えません。その久米仙人は墜落して死んだのかと思ったらそうではなく、そのふくらはぎを見とれた女性と結婚して幸せに暮らしたそうです。何とも羨ましい・・・。


<久米寺>

<久米寺本堂>

 ともかく、奈良とか京都といった歴史の古い街の寺社仏閣にはこういった伝説のような話があるので面白い。

<大和三山と藤原京>

 久米寺を参拝したら良い時間になったので、橿原神宮前にある「明日香レンタサイクル」へ。1日1000円で自転車を借り、ここからレンタサイクルによる史跡めぐり開始です。飛鳥は橿原神宮から見て南に位置しますが、その前に飛鳥の北側に位置する藤原京一帯を見てから飛鳥に向かうことにしました。橿原駅から国道169号を北上して、まずは藤原京の近くにある本薬師寺へ。


<やっぱり神社のような橿原神宮前駅>

<国道169号を北上して本薬師寺へ向かう>

 橿原神宮前駅から一駅の畝傍御陵前駅前で右折し、住宅地の中へ入って行くと、本薬師寺跡がありました。ここは奈良西ノ京にある薬師寺の前身寺院跡。薬師寺がビッグネームなので本薬師寺跡も結構なところだろうと思ったら、普通の民家の庭みたいな場所でした。7世紀末にこの場所に建設された薬師寺は、平城遷都とともに奈良へ移り、この場所には本薬師寺が残ったそうですがそれもいつの間にか廃寺になってしまったそうです。今は金堂や塔の基石が残るのみで、言われなければそんなに由緒がある寺院があった場所とは思えません。


<本薬師寺跡発見>

<本薬師寺跡>

<金堂や塔の基石が残る>

<本薬師寺跡から眺める橿原の地>

 本薬師寺跡から少し自転車を漕ぐと、辺り一面が開けた場所に出ました。ここが藤原宮跡。694年に持統天皇が遷都し、平城遷都までの16年間日本の都だった場所です。唐の長安を手本にした碁盤目状の都として、日本で初めての本格的な都だったと言われています。


<藤原宮跡にやってきた>

<今は緑が広がる>

 今回なぜ藤原宮跡に来たかったかというと、藤原宮跡から天香具山を見てみたかったからです。中学の古典で一番最初に習った万葉歌が「春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣干したり 天の香具山」という持統天皇の歌でした。当時の国語の先生によれば、「この句は持統天皇が藤原京から天香具山を見て、もう白い衣が干されている、夏が来たんだなあという思いを詠んだのだ」ということで、当時妄想少年だった僕の頭の中には一瞬にしてその光景が広がりました。緑の山、白い衣、青い空・・・。ああ何てさわやかな光景なんだ、一度そこに行ってみたいと思ってから15年。ようやく来ることができました。

 藤原宮跡の中に立つと、畝傍山、耳成山、天香具山の大和三山が良く見えます。一番平べったいのが天香具山。なるほど、持統天皇もここからあの山を見て歌を詠んだに違いない。藤原宮周辺はほとんど開発されていないので、見える風景も1300年前とそんなに変わらないだろうと思います。藤原宮のように跡形が何もないような場所で当時に想いを巡らすには想像力が必要ですが、僕のように妄想好きなら逆にその方が楽しめるのかもしれません。


<耳成山と書いてみみなしやまと読む>

<麓に橿原神宮がある畝傍山>

<手前に見える天香具山>

<中心となる内裏があったと言われる場所>

 藤原宮の近くに橿原市の藤原京資料室があるというので行ってみると、そこはJAの2階でした。とはいえJAの片手間というわけでもなく、きちんとした展示でした。藤原京は東西南北に5km四方あり、平城京をしのぐ規模だったそうです。ということは、今の橿原神宮の辺りまで藤原京の範囲に入っていたということか。今では想像もできませんが。


<JAの2階にある藤原京資料室>

<当時の藤原京をジオラマで再現>

<有名な持統天皇の「春過ぎて・・・」の句

<飛鳥と橿原は世界遺産を目指している>

 ということで、藤原京と大和三山を堪能し、中学生の頃からの目的を達成できて感無量です。

<飛鳥の地を駆けまわる>

 藤原宮をあとにして、ここから南下して飛鳥へ。時代的には藤原京の時代から100年〜200年ほど遡ります。途中天香具山のすぐそばを通ったので、高さも150m程度だしせっかくだから登ってみようかと思いましたが、朝の畝傍山に続いてここでもぐっと我慢。飛鳥は見どころが多く、後の予定が詰まっているので先に進まなければいけません。

 藤原宮から20分程自転車を漕ぎ飛鳥の地へ。まずはこの地のお勉強をするために飛鳥資料館へと向かいました。それにしても飛鳥の地は「The日本の田舎」という感じで、ここに都があったとは思えないくらいのどかです。


<のどかな飛鳥の地>

<のどかな飛鳥の地 その2>

<雷交差点という名前の由来が知りたい>

<まずは飛鳥資料館へ>

 雷交差点という、普通の地域だったら特に気には留めないかもしれないけれど、飛鳥だから何か伝承がありそうだと思わざるを得ない名前の交差点を左折して一路飛鳥資料館へ。飛鳥資料館は国立(独立行政法人)の奈良文化財研究所が開いている資料館で、ここに来れば飛鳥の歴史が一通り学べます。その意味では予習としてよかった。高松塚古墳から出土した装飾品や、現地では見られないキトラ古墳内部の壁画の複製などが見られます。 


<飛鳥資料館>

<建物はやや古い感じだが展示はしっかりしている>

<キトラ古墳の複製>

<当時の飛鳥寺の伽藍配置>

 飛鳥資料館を後にして、いよいよ本格的に飛鳥の地へ。飛鳥は3km四方の中に様々な見どころがあり、道も細いことを考えると自転車移動がかなり便利です。自転車ならのどかな里の風を感じながら走ることもできます。藤原鎌足生誕地跡を通り過ぎ、まずは飛鳥坐神社へ。小高い丘の上に小さな社殿があります。この神社はどうやら子作りの神社として有名なようで、境内にはいくつもの陰陽石(つまり男女のアレの形をした石)があります。2月には「おんだ祭り」という御祭があるそうですが、その様子の写真を見ると下手なAVより過激なんじゃないか・・・。一度生で見てみたい気もしますが。    


<飛鳥坐神社鳥居>

<飛鳥坐神社社殿>

<飛鳥坐神社は子授けの神様>

<2月の第1日曜日にはここで「おんだ祭」が>

 飛鳥坐神社から白壁の続く集落を通って次の目的地へ。集落掲示板の「大字飛鳥」というのが何となくかっこいい。  


<白壁が続く集落>

<大字飛鳥とはカッコいい>

 自転車を漕いで 飛鳥浄御原宮の跡と伝えられる場所へ。飛鳥浄御原宮は壬申の乱の勝利した天武天皇が672年に造り、奥さんの持統天皇が694年に藤原京に遷都をするまでの23年間、宮が置かれた場所です。言わば飛鳥最後の宮。ここで日本初の律令である「飛鳥浄御原令」が作られました。高校で日本史を選択した人であれば御存じの通り、飛鳥時代は天皇によって宮が一々動くので、暗記しづらいことこの上ありません。推古天皇の豊浦宮、舒明・斉明天皇の岡本宮、皇極・斉明天皇の板蓋宮、天地天皇の大津京・・・。浄御原宮もその中の一つ。当時よく覚えたものです。様々な発掘調査によって、本当の浄御原宮跡は後で訪れる板蓋宮跡と重なっていることが分かっているそうです。

 伝飛鳥浄御原宮の隣には、天智天皇(中大兄皇子)が作った日本で最初の水時計台跡も。


<伝飛鳥浄御原宮跡>

<中大兄皇子が作ったと言われる水落遺跡>

 さらに少し南下すると飛鳥寺。飛鳥寺の西側には大化の改新で殺された蘇我入鹿の首塚があります。辺りが畑の中にぽつんと立っているので、説明されなければ何なのかは分かりませんが、飛鳥は至る場所に歴史教科書に出てくるようなものがあるのが凄いところです。  


<蘇我入鹿の首塚>

<少し離れたところから首塚を眺める>

 蘇我入鹿の首塚を見て、そばにある飛鳥寺へ。飛鳥寺は日本最古の本格寺院である法興寺が前身となっていて、その創建は587年と伝えられています。蘇我氏の氏寺であり、創立者は蘇我馬子。息子の入鹿の首塚が近くにあるのはそのためでしょうか。法興寺は平城遷都の際に一緒に移って元興寺となり、残ったこちらは本元興寺(飛鳥寺)となり存続してきたそうですが、衰退して当時の広大な面影はほとんどなくなってしまったようです。確かに境内も狭く、名前の割に若干寂しい感じがします。   


<飛鳥寺全景>

<飛鳥寺>

 飛鳥寺で有名なのが、7世紀初頭に鞍作鳥(くらつくりのとり)が作ったと言われる釈迦如来像(通称飛鳥大仏)。何と現存しています。が、後世の補修場所があまりにも多いため、国宝ではなく重要文化財止まり。面長でアーモンド形の目という奈良時代以前の独特な仏像の特徴が良く出ているということです。 


<飛鳥寺の飛鳥大仏(釈迦如来像)>

<面長の御顔>

 再び自転車に乗って飛鳥路をひた走り、続いて板蓋宮跡へ。中大兄皇子の母、皇極天皇の宮跡です。645年、大化の改新で蘇我入鹿が殺されたのがここ。今でいえば、皇居松の間で取り行われる認証式で、天皇を目の前にして時期総理大臣が暗殺されるというようなものでしょうか。日本人なら誰でも知っている大化の改新がここで起こったのかと思うと、日本史フリークとしては嬉しくなります。まあ実際はテロなのだけど、非常に長い時間が経つと歴史になってしまって、善悪の判断ができなくなるのが怖いところです。

 この板蓋宮はその後火事で焼失し、その跡に先程の浄御原宮が建てられたということで、ここは飛鳥時代を通じて実質的な権力の中心地だったそうです。


<細い道を進む>

<伝飛鳥板蓋宮跡>

 板蓋宮の近くが明日香村の中心地で役場があります。人口約5800人の小さな村。村全域が古都保存法の対象になっていて、明日香村特別措置法という法律もあるそうです。世界遺産登録を目指しているそうですが、まだ世界遺産に登録されていなかったことの方が驚きです。てっきり奈良と一緒に登録されているのかと思っていました。  


<明日香村の中心部>

<明日香村役場>

 明日香村の中心部からまたしばらく漕ぐと、今度は川原寺跡。一旦退位した皇極天皇が重祚して斉明天皇となり、板蓋宮が燃えた後に仮宮として川原宮を営んだ後、息子の中大兄皇子がその跡地に寺を作ったそうです。今では当時の伽藍配置が分かるように整備されています。 


<飛鳥の里>

<川原寺跡>

<川原寺跡その2>

<川原寺に復元された礎石>

 川原寺から道を一本挟んで小高い丘の上にあるのが橘寺。日本歴史上スーパースターの一人、聖徳太子が生まれた場所と言われているところです。境内には法隆寺に住んでいた聖徳太子が毎日飛鳥までの20kmを通うために乗った馬の像や、人の心の二面性を表しているという二面石、何やらの伝説があるという三光石など、聖徳太子ゆかりのものが多くあります。そして本堂に祭られているのは聖徳太子坐像。これだけ聖徳太子だらけだとある意味清々しい。  


<川原寺跡から橘寺を見上げる>

<橘寺から川原寺跡を眺める>

<聖徳太子の生誕地、橘寺>

<聖徳太子が出勤に使ったという馬>

<善と悪の相を表す二面石>

<何やら伝説がある三光石>

 そろそろ時間も2時近くになったので、石舞台古墳の近くにある物産館夢市の2階にある「夢市茶屋」で昼食。冬とはいえ結構いい天気のなかで自転車を漕ぎまくったのでかなり腹が減りました。ここは農村レストランを謳っている通り、地元食材にこだわっているそうです。本当は飛鳥名物の飛鳥鍋御膳を食べればよかったのだけど、汗をかいて暑かったのと、無性にカレーが食べたくなったこともあって黒米カレーにしました。このカレーは家庭で作られているような甘めの味でかなりおいしかった。ちなみに飛鳥鍋とは牛乳で野菜や鶏肉を煮た鍋物のことです。次はそれを食べるかな。 


<石舞台古墳の近くにある夢市茶屋>

<黒米カレー>

 そしていよいよ石舞台古墳へ。さすがに超有名スポットだけあって、他の場所ではそんなに観光客を見ませんでしたが、ここはかなり賑わっていました。石舞台古墳は写真では何度も見たことがあるけれど、実際に見るのは初めて。写真で見るよりもかなり大きいです。そしてこの巨大な石をどうやって運んだのかが気になります。

 ここは古墳の中にも入れるようで、中に入ってみるとボランティアのおじさんが説明をしていました。それによると、この巨大な石は積み上げたのではなくて、段々と土を掘って石が露出するようにして作ったとのこと。なるほどね。やっぱりこれだけの巨大な石を人力で積み上げていくのは無理か。


<石舞台古墳>

<良く見ると本当に積み上げられているだけ>

<古墳の中に入ってみる>

<玄室の中で説明を受ける>

 石舞台古墳の次は近くの岡寺へ。岡寺は結構高いところにあるので正規ルートを自転車で行くと大変そうですが、石舞台古墳も比較的高いところにあるので、地図にある裏道を使ったら楽なのでは?と思い、細い道をくねくねと登っていきました。しかしこれが大きな間違いで、全然楽じゃないどころか傾斜がきつすぎる。何より「この先階段あり 車は登れません」と書かれており、階段があれば自転車も登ることはできません。仕方なくその看板のところにあった広場のような場所に自転車を止めて、ほぼ山道をてくてく歩いて行きました。上りの傾斜も辛ければ、下りの傾斜も結構きつい。明らかに道の選択を失敗してしまった。 


<石舞台古墳から地元道を登って岡寺へ>

<何やら怪しい雰囲気>

<凄い道になってしまった>

<飛鳥の街を見下ろす>

 そんなことで30分の山越えを経てようやく岡寺に到着。岡では天武天皇の息子、草壁皇子の宮殿を寺に改めたのが始まりだそうで、厄除けの信仰を集めているようです。特に厄年というわけではないけれど、厄がないように念入りにお参り。


<岡寺>

<岡寺境内>

<岡寺本堂>

<寺の前にはみかんやあすかルビー(イチゴ)が>

 岡寺からは普通の道を通って麓に降りたかったけれど、自転車を山の向こうに置いてあるので再び同じ道を戻らなければいけません。また30分かけて山越えをして、ようやく石舞台古墳まで戻ってきました。冬の寒い時期に山越えをしたので息も上がります。喘息の治療を受けてなかったら絶対に喘息になってたくらいの強度だったので、治療を受けておいてよかった。やっぱり旅先では変なルートを行くもんじゃありません。ガイドブックに書かれているルートに従うのが一番。勉強になりました。

 石舞台古墳からは再び平坦な道をサイクリングし、飛鳥の里にちらばる遺跡群を見ながら高松塚古墳へ。飛鳥には至る所に奇妙な石造物がたくさんなります。亀石、鬼の俎、鬼の雪隠など。誰が何のために作ったのか。    


<亀石>

<村立聖徳中学校とはかっこいい>

<鬼の俎>

<鬼の雪隠>

 天武・持統天皇夫妻の陵を眺めながら、夕暮れの飛鳥の里をサイクリング。サイクリングコースが整備されているので、何組かのサイクリング観光者とすれ違いました。のどかな風景に囲まれてサイクリングするのは気持ちがいいものです。   


<天武・持統天皇陵>

<そろそろ夕暮れが近づいてきた>

 石舞台古墳から30分自転車を走らせて高松塚古墳に到着。高松塚古墳の内部には入れないので外から眺めるのみですが、外から眺める分にはまあこんなもんかという感じではあります。中の有名な壁画は非公開というか、外に出されて別の場所で補修作業中。高松塚古墳の壁画館で内部の壁画の模写を見ることができるということで、そちらに行って内部壁画を見てきました。確かに極彩色で、四方を囲まれるとなかなかの迫力があります。  


<高松塚古墳>

<以前は何てことない古墳だった>

 その後はサイクリングをしながら飛鳥駅の方向へ。飛鳥には至る所にこんもりとした丘墓があり、恐らくそのどれもが古代の有力者の墓なのだと思いますが、その多さには驚きます。下の4つの写真の左上は持統天皇の孫、聖武天皇の父に当たる文武天皇の墓なので宮内庁管轄となっており結構立派ですが、一見すると誰の墓か分からない場所も多く存在しています。  


<文武天皇陵>

<文武天皇陵を遠くから>

 最後は飛鳥駅の近くにある欽明天皇と吉備姫王の墓へ。吉備姫王の墓には猿石と呼ばれる奇妙な石があります。欽明天皇陵は明日香村で一番大きな前方後円墳。しかし前方後円墳であることは上空から見ないと分からないので、いまいち実感が湧きません。    


<吉備姫王墓>

<吉備姫王墓にある猿石>

<欽明天皇陵>

<欽明天皇陵は明日香村最大の前方後円墳>

 これでとりあえず見たかった場所は見終えたので、出発地点の橿原神宮前駅まで戻り、4時過ぎに自転車を返却してサイクリングは終了。気持ちいい天気で良い運動になったのはもちろん、何より長閑ながらも歴史の香りが溢れる飛鳥の里を巡ることができたのはよかった。こんなに開放的でミステリアスで魅力的な場所だとは思っていませんでした。またいずれ、季節を変えて飛鳥路をのんびりサイクリングしたいと思います。  

<奈良に戻って夕食>

 4時過ぎの電車に乗って奈良まで戻り、近鉄奈良駅の一駅手前の新大宮で降りて駅前をぶらぶらと散策。奈良は歴史遺産が数多くある魅力的な街ですが、唯一残念なのは身を乗り出してしまうような飲食店があまりないことです。確かに街中に個性的な店がある京都と比べると、奈良の飲食店は普通の街とあまり変わらないような気もします。某ガイドブックだと、京都なら食べ物のページが何ページも続くのに、奈良は名物として2,3ページあるのみ。「奈良に美味いものなし」と言われているのも頷けます。

 しかしそれでも有名な店はいくつかあるので、今回はその中の一軒で夕食を取ることにしました。釜めしの「志津香」という店で、名物の釜めしを食べようと。しかし立派な店構えに躊躇してしまい、怖気づいた僕はお持ち帰りもできるというのでそちらの方向にシフトチェンジ。門が二つあるような店で一人で食べるなんて無理です。レジで奈良七種釜めしを注文し、近くのスーパーで時間を潰してから出来たての釜めしを受け取りました。


<釜めしの志津香で釜めしを購入する>

<綺麗な夕暮れ>

 奈良駅の近くで、奈良の名物でもある平宋の柿の葉寿しを買ってからホテルへ。夕食は釜めしと柿の葉寿しです。釜めしは土釜の保温効果でご飯もふっくら暖かく、具もふっくらとしています。お焦げの部分がおいしい。柿の葉寿しもおいしい。まあ、奈良と釜めしがどう結びつくのかとか、志津香は創業50年なので奈良の歴史に比べれば実は新参者もいいところとか、柿の葉寿しはそもそも奈良ではなく吉野の名物だとか、言い出せばいろいろとキリがありませんが、おいしかったのでよしとします。  


<買ってきた釜めし>

<奈良七種(牡蠣入り)釜めし>

<平宋で柿の葉寿しも買う>

<柿の葉につつまれている鯖や鮭や小鯛や>

 一日中体を動かしたので、本日は早目の就寝。


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