このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

すぱくり人生 〜高校編


【初めての進級旅行 広島・宮島一泊二日の旅】

先日、ふとしたことで昔のアルバムを見る機会があった。アルバムといってもろくに整理もしておらず、中学・高校時代に撮った写真を順番に並べただけのものだが、たまに見ると昔のことを思い出して面白い。当時から使い捨てカメラを持ち、日常の何気ないヒトコマを撮るのが好きだったので、アルバムに並んだ写真のほとんどは何てことない写真ばかりだが、逆にそういった写真のほうが後から見ると楽しかったりする。公園で蹴鞠をしただとか、高校の帰りに公園で大富豪をしたとか、なぜか神社でぶらぶらしている写真とか、カラオケで熱唱している写真とか、そんな写真が8割だ。しかも一緒に写っている友達の多くは、マルコフ・のの・そば・yneといった、今でも付き合いが続いているメンツだったりする。

そんな日常の何気ない写真が多いアルバムだが、もちろん日常ではない写真もある。修学旅行とか、体育祭とかいった、学校の公式行事の写真だ。学校の公式行事でもなく、日常の何気ないヒトコマでもない写真はほとんどない。そりゃ中学・高校生が学校の公式行事以外で非日常を体験するなんてほとんどある訳がない。日頃の行動範囲なんて、自転車で駆けずり回ることができる程度の狭い範囲だ。高校が徒歩圏内にあれば尚更である。東京で育ったシティーボーイはどうか知らないが、田舎の健全な高校生は多分皆そうだと思う。

そんな非日常をほとんど体験したことがない僕だが、例外的に一度だけ「非日常体験」をしたことがある。それは、先ほど挙げた4人の友達と行った、広島・宮島旅行である。もちろんその写真もアルバムに収められているが、何気ない日常の写真が多いアルバムの中では異彩を放っている。皆テンションが高いのである。

ここではその、広島・宮島旅行の話を書こうと思う。初めて親がいない旅行であり、初めて友達と行った泊まりがけの旅行であるという点で、かなり特別な思い出であることは間違いない。でもあれから10年以上が経ち、当時の記憶がぼやけ始めている。そんな、昔の楽しかった思い出を忘れたくないわ、だから今のうちに書き残しておこうかしら、という目的もある。ちなみにいつもの旅行記と違って、写真がないのと10年以上前のことを現時点(2008年)から思い出して書いているということをご承知おきください。

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1997年3月。僕らは高校1年生の修了式を無事終え、晴れて2年生に進級できることになった。最後まで数学の追試で苦しんでいたマルコフも無事追試を通過したらしい。よかったよかった。じゃあそのお祝いに旅行でもする?という話になり、るるぶを買っていろいろ調べる間もなく、あれよあれよと日程・行き先・宿泊場所が決まった。場所は前年12月に世界遺産に登録されたばかりの広島・宮島。広島で原爆ドームでも見て、夜は宮島で止まって大富豪でもやりながらワイワイやろうじゃないかという腹積もりである。日程は3月最後の30日(日)、31日(月)の二日間。友達同士で行く、初の泊まりがけ旅行となった。

参加者はマルコフ、のの、そば、yne、そして僕の5人。できるだけ早く行動しようということになり、30日の朝5時半に新下関駅に集合ということになった。ただ、この辺は今にも通じるところだが、僕らは大雑把で適当に物事を決めてしまう癖がある。決めたはいいものの、後になって「あー、どーしよ」ということが多々あった(というか今もある)。この集合場所に関してもそうで、大体朝5時半にどうやって新下関駅まで行けばいいのかと。何で最寄りの幡生駅じゃなくて、ひとつ先の新下関駅なのかと。5人とも同じ中学校区に住んでいて、皆幡生駅が一番近いのに。。今となってはなぜ新下関駅集合にしたのか全く持って謎である。まあ多分、「遠出の旅行だから出発はターミナル駅!」という単純明快な思考回路でそうなったんだろうとは思うけれど。

最初僕は「自転車で行けばいいかぁ」と軽く考えていた。ところがそれを親に話すと大反対で、「馬鹿、危ない!」と。当時はまだ16歳。そして田舎。夜中は真っ暗で何があるか分からない。第一下関は治安が悪い。そりゃ親が心配するのも当然だ。ということで、結局うちの父親が車で駅まで送ってくれることになった。朝っぱらから申し訳ないことです。。途中でののとそばを拾い、新下関駅へ。ところが駅に着いてすぐ、そばが「財布がない!」と。どうやらうちの父親の車に置き忘れたらしく、一旦家まで帰っていた父は再び新下関駅へ来てくれた。当時は携帯のない時代、連絡するには一旦父親が家に帰るのを待つしかなかったのだ。その間約30分。父には悪いが、なかなか面白い出足だ。そばのこの少しおっちょこちょいな行動は本当に尊敬に値する。(←これ褒めてます。いつも笑わせてもらってるので)

マルコフとyneと落ち合い、無事財布も戻ってきたところで、早速旅行開始。高校生でお金のない僕らは、もちろん新幹線移動ではないくトコトコ在来線で移動である。料金を調べると、片道約4000円。これは高校生にとっては結構痛い金額だが、思い出には代えられないので仕方がない。ということで駅員さんに「広島までの切符をくださーい」と頼むと、駅員さんから「広島に行くなら青春18きっぷというのを使ったら安く行けるよ」と言われた。何だ、その青春18きっぷというのは?駅員さんに聞いてみると、2300円で普通列車に一日乗り放題だという。しかも宮島へ行く船にもただで乗れるらしい。何と、そんな便利なきっぷが!もう行く前から得した気分だ。一日目は広島まで行ったあと、広島から宮島まで移動する予定だったので、電車代は4500円近くかかる予定だった。それが半額近い2300円で行けるなんて!!ありがとう、JR様。ということで、出発する前から僕は得した気分になった。これが僕と青春18きっぷの出会いである。。

さて、6時過ぎの電車に乗った僕ら。新下関から広島までは三時間半の長旅である。朝なので当然電車は空いていたが、ボックスシートの定員は4人。僕らは5人。ということで、じゃんけんで負けた一人が最初に立って、交替で座ることにした。でもこれだと、傍から見たら立っている一人が座っている4人に絡んでいるようにも見えなくもない。

電車の中ではコンビニで買ったおにぎりを食べたり、たわいもない話をしたりしていたが、旅行ということもあって皆テンションが高すぎる。マルコフの声が大きく、ののが「マルコフ、声でかい」と注意すると一旦は声が小さくなるが、まただんだんと大きくなり、再びののが「マルコフ、声でかい」と嗜めるという無限ループに突入していた。あと、当時の僕らの中で流行っていたのは「しりとり」で、このときも途中からずっとしりとりをしていたような気がする。今考えると、高校生がなにしりとりをして盛り上がってるんだという話だが、当時の僕らはそれで盛り上がれたのだった。僕の戦法は「る攻め」と言われ、随分と恐れられていた(ような気がする)。というか、「る攻め」という用語を作り出している時点で、しりとりをやり過ぎである。何やってるんだか。他のお客さんはどういう目で僕らを見ていたのだろう・・・。

電車は右に瀬戸内海を見ながら、一路東へ。広島までの3時間半はかなり長いが、しりとりをして盛り上がっている僕らにとってはあっという間と言っても過言ではない(いや、さすがに過言だけど。)電車は徳山、岩国を過ぎた辺りから人が多くなり、さすがにしりとりにも飽きてきたかという午前10時頃、ようやく広島に到着した。。

僕自身広島は2度目だったし、他の皆も恐らく広島は初めてではなかったと思うが、今回に限っては初めてとか二回目とかそういうものは関係ない。「友達と泊まりがけの旅行に来ている」という点が重要なのである。広島に着いた時点で、「あぁ、みんなで広島に来たなぁ」と感慨深くなった僕は、広島の駅名票を写真に撮った。今とやっていることは全く変わっていない。それにしても広島は雲ひとつないいい天気だった。

広島に来たものの、特にこれといって予定を立てていなかった僕ら。これも僕らの悪い癖である。いつも、「とりあえず本屋に集合!」と言って集まったはいいものの、何をするかを考えているわけでもなく、そこから「どーする?」の応酬合戦になる。特に計画を立てずに集まるだけ集まっておいて、物事が全く進まない。本当に悪い癖だ。でもそれが僕らのスタイルなので仕方がない。もちろん、スタイルといっても自慢できるものじゃないけれど。

この日も「どーする?」の応酬合戦になりかけたが、広島と言えば「平和公園と原爆ドームだろう」ということになって、そっちへ向かうことになった。広島に平和公園があってよかったよかった。広島駅からは路面電車に乗って原爆ドーム前まで行き、原爆ドームや平和記念公園、祈念資料館などを見物した。原爆ドームや記念公園はそれ以前に見たことはあったが、平和記念資料館に入るのは初めてだった。中学の修学旅行で長崎の原爆資料館に行っているとはいえ、広島と長崎の資料館を一緒にしてはいけない。もちろん展示内容は似てしまいがちだが、それぞれの都市の特性に応じた展示、そして何よりもそこに生きた人たちの生の声が聞こえてくるという点で、広島と長崎は全く別物だと思った。靖国神社のように戦争を賛美する展示でもなく、かといってアメリカに対して敵意を抱く訳でもなく、自虐的になるわけでもなく、ただ淡々と事実を述べる展示内容。だがその展示の淡々とした語り口こそが、原爆の怖さを表現するのに適していたのではないかと思う。僕は声が出なかった。そしてこの世には「絶対悪」があるものなのだと思った。(・・・と偉そうに書いていますが、10年以上前のことなので実際ほとんど忘れているのが正直なところで、近々改めてもう一度見に行かなければいけないなぁと思っているところです。)

とまあ原爆の悲惨さを改めて噛みしめた僕らだったが、時間も12時を過ぎて腹が減ってきた。腹が減っては戦はできないので、昼食を食べることにした。広島と言えばもちろんお好み焼きである。広島には「お好み村」という、お好み焼き屋がたくさん入ったビルがあり、そこで食べようと、わざわざるるぶの地図のお好み村のところに丸印を書いていたくらいの気合いの入れようである。しかし、どこをどう探してもお好み村が見つからない。おかしい、スラムダンクで安西先生と豊玉の北野前監督が一緒になって食べていた、あのお好み村が見当たらない。意気消沈した僕らは、お好み村で食べるのは諦めて、近くにあるお好み焼き専門店で食べることにした。その店のお好み焼きも確かにそこそこおいしかったが、目の前の鉄板からそのまま食べるのではなく、皿に盛られて出された。これでは本場感が味わえないじゃないか。おまけに値段も1000円と、高校生には非常に痛い出費だった。

食後は特にやることもなかったので、広島一番の繁華街である紙屋町を通って広島市民球場へ向かう。当然野球場には入れないが、とりあえず「おぉー、でかい!」と驚いておく。というか、驚かないと来た意味がない気がしたので、形だけでも驚くことにした。その広島球場の傍に「広島市こども文化科学館」というものがあるというので、そこに行ってみることに。科学館の中は子供が体を動かして楽しく科学を学べるようになっていて、日曜日ということもあって大勢のちびっこがいた。当時の僕らはもちろん「子供」に当てはまるが、そこはさらに低年齢層を対象にしている場所だったのである。が、それにめげない僕らは、無邪気に遊ばせてもらった。

例えば「100mを何秒で走れるか?」みたいなコーナーがあり、そこでは早く足踏みをしてその秒数を測定するというものだったと思うが、前の子供達が20秒台の記録を出す中で、ののが一人6秒台の記録を叩き出した。今でいうところのKYである。走り終わって(というか足踏みし終わって)も涼しい表情のままでいるののと、周りにいた子供達の驚いた顔は未だに忘れられない。

そんなこんなで広島を満喫した僕ら。いい時間になったので、宿泊地である宮島へ向かうことにした。広島から宮島の玄関口である宮島口までは電車で30分、そこから宮島まではフェリーで10分である。すでに夕方近くだったが、フェリーから見えた厳島神社の赤い鳥居は素晴らしかった。海の上に浮いている鳥居は幻想的な雰囲気すら感じさせる。

やがて宮島に到着し、本日の宿へ。フェリー乗り場から宿までは歩いて2分。すぐの距離だ。しかし、最初にお出迎えしてくれたのは宿の人ではなく、宮島にたくさんいる鹿さんだった。宮島の鹿は本当に人に慣れてしまったのか、餌も何も持っていないのに寄ってくる。おまけに紙袋を持っていると見ると、中身が何であるかなんてお構いなしに噛みまくる。僕は紙袋を持っていなかったのでよかったが、広島でぷよまんのお土産を買ったそばは、ぷよまんの入った紙袋を食いちぎられて大変な目にあっていた。ちなみに「ぷよまん」とは、もみじ饅頭がぷよぷよの形になったもので、親会社の倒産とともに生産中止されてしまったために今では売っていない。

鹿さんの攻撃を受けつつ、何とか宿に到着した僕ら。「ペンションみやじま」という、こぢんまりとしたペンション風の宿である。ペンション風なので外国人観光客にも人気があるらしい。確か、「宮島の裏通りも宮島です」というキャッチフレーズがあったようななかったような気がする。ご家族で経営されているらしく、まずは宿のおかみさんがお出迎えしてくれた。おかみさんが「卒業旅行ですか?」と聞いてきたので、「えぇ、まぁ・・・」と適当にスルーしようかとしたが、その前に「いや、進級旅行です!」とマルコフに喜々として答えられてしまった。数学の追試をクリアして、進学できたことが嬉しかったのだろう。おめでとう、マルコフ。

部屋についてしばらくすると、すぐに夕食の時間になったので食堂へ。食堂といっても学食みたいな感じの汚らしい場所ではなく、暖炉があって木のテーブルと椅子があってと、かなり御洒落な空間である。夕食は何と欧風料理スタイルで、初めて経験するこのスタイルの食事にやけに緊張してしまった。今でこそそんな食事でも緊張はしないだろうが、生まれて初めて経験する、フランス料理形式の順番に料理が出てくるスタイルというのはやたらと緊張するものである。それに当時は高校1年生。僕らみたいな小僧にこんないい料理を出してもらわなくても・・・と、かなり恐縮しながら食事は進んでいった。しかも厨房ではこの店のご主人が料理を担当していたのだが、この人が結構怖い人で、奥さんや娘さんをやたらと怒っている。厨房とテーブルが近いので会話は丸聞こえ。今ならそんなやり取りを聞かされて憤慨すること間違いないだが、当時高校1年だった僕は「怖いよぅ」と思いながら、ただひたすらに目の前の料理を食べすすめたのだった。他の皆も雰囲気を察してか言葉少な。料理は牡蠣や魚介類が出てかなりおいしかったものの、そういった数々の理由でおいしさが半減してしまったのは残念だ。できることならもう一度行って、今の僕であのときの料理を味わいたい。

食後は夜の宮島へと繰り出す。夜の宮島と言っても、高校生なので飲みに行くわけではない。というか、第一宮島にはそんな居酒屋は皆無である。目的地は夜の厳島神社。ちょうど潮が引いて、鳥居のところまで降りることができた。夜はフェリーが運航していない以上、この夜の厳島神社を堪能できるのは宮島に宿泊する者だけの特権である。その特権を利用して何枚か写真を撮った。ライトアップされた厳島神社は本当に美しく、その記録を残そうと思ったのだ。しかし帰って現像してみると、そこには何も映っていない真っ暗闇。映るんですじゃ夜景は撮れなかった・・・。まあ、あの美しい夜の厳島神社の景色は、心の中に留めておくことにしよう(と言いながらも、10年も経っているのでもうどんな風景だったかすっかり忘れてしまいました。)

そして宿へ戻り、順番に部屋のシャワーを浴びてからがいよいよ本番。夜のお楽しみである。夜のお楽しみと言っても、酒やイカガワシイことではない(さっきもこれ言ったような・・・)。僕らは健全な高校生。田舎の高校生である僕らにとって、酒は飲まないのが当たり前であった。酒がなくても当時は十分盛り上がれたのだ。あ、でもマルコフだけは一本だけ梅酒飲んでたかな?まあ時効だから言っても大丈夫でしょう。ともかく、酒でも女でもない高校生の楽しみと言えば、トランプゲームの「大富豪」しかないわけである。しかも今回は親もいなければ先生もいない。やりたい放題大富豪ができるのだ。ここから長い長い夜が始まった。

まずはマルコフに空中浮遊の特技を披露してもらったあと(マルコフ教祖は「教祖」だから空中浮遊が得意なのです)、そこからひたすら5人で大富豪。ずっとずっと、ただひたすら大富豪である。しかし当時の僕らにとって、この大富豪は麻薬みたいなものだった。やっているうちに本当に盛り上がれるのだ。今となって思えば、ほどよく酒が入っている感覚に似ている。当時は酒もないのにまぁよく大富豪だけで盛り上がれたものだと思うが、それが本当に楽しかった。負けたら「朝買って賞味期限の切れたタラコおにぎりを食べる」という罰ゲームを作ったが、そんな罰ゲームだけで異様に盛り上がれるのだ。実際、そのゲームは僕が負けておにぎりを食べることになったが、そのおにぎりを食べる前のに撮られた写真を見ると、おにぎり片手にこれでもかというくらいの満面の笑みを浮かべている。その写真は今となっては結構恥ずかしいが、一方で当時のそんな自分が羨ましかったりするのも事実である。

そんな感じで大富豪をし続けること6時間。夜中の3時半になったところでお開きになった。さすがに大富豪をやり過ぎて、そして笑いすぎて疲れたのもあって、電気を消したらすぐ就寝・・・となるところだったが、誰かは分からないがいびきがうるさくて眠れないという状態に。ううむ・・・。それでも何とか睡眠を取って、8時前に起床。そして再び食堂で朝食。朝食はあまり覚えてないが、パンとか卵とかの洋風のものだった気がする。

二日目もいい天気。宿の人にお礼を告げて、帰るまで宮島をぶらつくことにした。まずは昨日に引き続いて再び厳島神社へ。夜のライトアップされた厳島神社も綺麗だったが、日中の荘厳な姿の厳島神社もまた美しい。この日は3月31日。ちょうど時期的に桜が咲いていて、千畳閣の隣にある五重塔とのコントラストが素晴らしかった。しかしそれとは対照的に、鹿は今日もしつこい。カメラの切れたマルコフが売店に寄って新しい映るんですを買っただけなのに、売店の前には鹿の群が出来ているのである。餌でも貰えるのかと期待してのことだろうが、その威圧感といったら正直気味が悪い。君らはアイドルの出待ちでもしとるのかと。奈良公園のシカは餌をもってないと近寄ってこないが、宮島のシカは餌があってもなくてもお構いなしに寄ってきて、しかも攻撃的なのだ。この辺、宮島のシカは性質が悪いと思う。

この後のことだが、実はあまり記憶がない。確か宮島をぶらぶらした後でフェリーに乗って対岸に戻り、もみじ饅頭を買ってから電車に乗って帰ったような気がする。宮島で昼食を食べたのかどうかも覚えていない。あ、でも一つだけ、宮島口の駅で駅員に、「青春18きっぷは新幹線に乗れるんですか?」と聞いたら、馬鹿にしたような感じで「のれないよ」と言われたのは覚えている。あれには本当に腹が立った。そりゃ何にも知らない高校生だとは思われたんだろうけど、腹が立って仕方がなかった。今だったら即抗議である。まあ、なんだかんだで帰路につき、夕方頃に下関に帰りついて旅は無事終了した。

何だか特にオチもない思い出話になってしまったが、後々考えるとこの旅行はいろいろな意味で重要なものになったと思う。親も先生もいない、友達同士で行く泊まりがけの旅行は初めてだったし、僕が国内旅行の楽しさに目覚めたきっかけでもあった。これ以降、この5人で泊まりがけの旅行をしたことは一度もない。でもまたいつか、皆で旅行をしたいと思う。あれから10年以上の時が経ち、僕らも一応大人になった。当時とは違う気持ちで、そして当時と同じ気持ちのままで、皆で同じ経験をできるとするならば、それは本当に幸せなことだろう。旅行の醍醐味というものは、実はそこにあるのではないだろうか、と最近思うようになった。

最後に、重ね重ねオチのない話ですみません。

(2008年10月)


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