このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


2006年10月8日(

 今日は久々に横浜へ行ってきました。天気も抜群にいいし、絶好の散歩日和。

 まず向かったのは、上星川にある寿々喜家。約2年振り(2004年11月20日の日記参照)。そして2年前と同じく、すのさんのご両親に奢ってもらってしまいました。2年前と違ったのは、今回は二日酔いではなかったこと。前回は二日酔いで食欲なかったし、味も何もわかったもんじゃなかったからな。今回はノーマルのラーメンを注文。 

 食べた感想はただただおいしいということ。家系ラーメンの中では間違いなくトップです。家系といえばその油っこさで一部の若い男性のハートをぐっと掴んでいるというのが一般的なイメージですが、寿々喜家のラーメンはそうじゃない。スープがしつこくなくて、それでいてコクがある。「さわやかな家系」という称号を与えたいぐらいです。あとは店員さんの接客態度も今まで訪れたラーメン屋の中で一番。上星川駅から徒歩10分と、立地的には決していいとは言えないのに、行列が絶えることないのも頷けます。これは家の近くにあったら毎日でも通ってしまう。遠くでよかった。おいしいラーメンをご馳走様でした。

 ラーメンを食べた後はみなとみらい地区へ。日が暮れるころまでみなとみらいをぶらぶらしました。予想以上の人出に、田舎者の自分はびっくり。ウォーターフロントといったら開発に失敗して寂れているところが多い中で(お台場とか下関とか)、横浜は別格の賑わいを見せています。こりゃすごいね。ということで、まずは赤レンガ倉庫周辺をぶらぶら。


<赤レンガ倉庫とランドマークタワー>

<遊覧船が気持ちよさそうです>

 次は山下公園へ。山下公園といえば童謡で有名な「赤い靴はいてた女の子」。歌では赤い靴はいてた女の子が異人さんに連れられて言っちゃうわけです。

 実際この赤い靴はいていた女の子にはモデルがいるそうで、彼女の名は「岩崎きみ」さん。明治35年7月15日、静岡県清水市生まれ。母親のかよさんと共に北海道へわたるものの、入植の厳しさから当時3歳のきみちゃんは泣く泣くアメリカ宣教師の幼女に出されます。ところが、宣教師がアメリカへ帰ることになったとき、きみちゃんが結核に冒されていることが判明。当時の結核は不治の病。不治の病に冒された彼女をアメリカへ連れて行くわけにもいかず、麻布十番の孤児院へと預けられます。そして明治44年、彼女は9歳の若さでこの世を去りました。母親のかよは娘の死も知らず、昭和23年に「きみちゃん、ごめんね」との言葉を残して他界したそうです。かよさんは娘がアメリカで幸せに暮らしていると信じたまま亡くなったのだとか。

 実際聞くと何とも悲しい話ですが、要は赤い靴はいてた女の子は異人さんに連れられて行っちゃわなかったみたいです。もしかすると、この歌は何も知らない母親のかよさんの思いを歌った歌なのかもしれません。しゃぼん玉飛んだといい、悲しい歌の作詞をさせたら野口雨情の右に出るものはいませんね。


 <赤い靴履いてた女の子の像>

 <海を見つめる赤い靴はいてた女の子>

 続いて横浜開港資料館へ。1853年に日米和親条約が結ばれた地にあります。資料も充実していてなかなか。展示を見て、ほぼ忘れかけていた幕末の歴史を思い出すことができました。中庭にある大きな玉楠の木は、条約締結当時からあるそうで、当時の様子を描いた、有名なあの図(右下のやつ)にもちゃんと載っています。そうか、ここがあの画の舞台だったのかと思うと感慨深いですね。


<横浜開港資料館>

<「日米和親条約締結の地」記念碑>

<中庭にある大きな玉楠の木・・・>     

 <・・・は当時の様子を描いた画の右端に描かれている>

 開港資料館を見物したあとは、再び海方向へ向かって大桟橋埠頭へ。ここから眺める景色は、これぞ横浜!という景色。相当海風が強かったので、写真を撮るのが大変でした。

 その後神奈川県庁や馬車道を眺めながら帰途につきました。横浜にはレトロな建物が多いですね。下関や門司港と比べたら横浜の人は怒るかもしれないけど、やっぱり古くからの港町にはレトロな洋館が残るものなのでしょう。みなとみらいの古い建物が残る地域を歩いて、何となく故郷を思い出しました。


<神奈川県庁>

<馬車道>

 横浜から渋谷までは東横線一本で特急使ってわずか26分。本当に近くなったものです。せっかく横浜気分に浸ったので、夕食は崎陽軒のシュウマイ弁当。東京の我が家で食べても十分おいしい。

 横浜はいい街だ。

モドル

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