このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
小室への道
〜新京成バス拾遺その5
船橋市の最北端、小室町。千葉ニュータウンの一角として船橋市の北の要になっています。
そして船橋駅と北習志野駅から船橋市を縦貫するバス路線の終点が北総線の小室駅。そして北総線の開業前からバスが伸びていたこの船橋市北辺の地を思いおこして見ましょう。
八幡下(小室)バス停があったあたり |
写真は2005年12月撮影
神崎川と二重川に囲まれた小高い台地が突き出した格好の船橋市最北部、小室の集落はもともと東側の神崎川沿いの低地でした。その中核となるのが八幡神社で、かつての終点、小室停留所はこの下にありました。
1954年に船橋市に併合された旧豊富村に属していたこのエリア、旧村の中心だった豊富町の支所近辺を過ぎると、かつては集落もまばらでした。学校も豊富小、豊富中が最北端でした。
30年以上前の春先、小学校の同級生と一緒に小室に山菜取りに出かけ、北総線や道路用の掘割をはじめとして形になってきた造成地で、ツクシやフキノトウを採ったことを覚えています。
小室駅ロータリー |
八幡神社のそばで折り返していたバスに転機が訪れたのは1979年。北初富−小室間の北総線が開通して、小室でバスと電車が出会いました。
当初はバスは駅に入らず、いけずな関係でしたが、しばらくして(1981年説があるがどうでしょうか)駅への乗り入れが始まりました。
乗り入れ当時の船橋駅北口出発時のテープは、「御滝中学校前、三咲駅、豊富農協前経由、北総鉄道小室駅行きのワンマンカーです」であり、ほかの「駅」が何線とは言わなかったのに、「北総鉄道」と名乗るのが新鮮でした。
当時の道路は、R464に斜めにぶつかる県道がそのまま進み、八幡神社のあたりに来て、左折して駅に向かうと言うもの。小室駅延長に伴い小室は八幡下と改称されました。
小室へ来るバスは、船橋駅からのほか、鎌ヶ谷大仏からの入出庫便がありました。また、朝方に船橋行きの1便だけ、豊富農協前から古和釜十字路、雄鹿野経由で船橋駅(しかも当初は南口)に向かう便もありました。(後の船20系統)
これらが小室駅に乗り入れましたが、1980年代に現れたのが北習志野駅とを結ぶ小室01系統です。
北習志野駅発着なのに「習」ではなく「小室」系統(2文字はこれが初めて)、古和釜線ファミリーなのに高郷経由ではなく坂下経由、そして八幡下を通らずにニュータウンのなかを回るハイランド経由と言う異色ずくめでの登場には、系統名からして小室を要として北部の発展が予想されていたのでしょう。1982年には東洋バスが勝田台駅−小池の路線を延長する形で乗り入れており、成長期が続きました。
さらに少し遅れて、豊富、小室方面へと三咲駅基点の系統が増発されましたが、これもハイランド経由となり、伝統の八幡下経由がやや翳ってきましたが、旗艦系統の船07が八幡下経由を守っていました。
小室駅から八幡下方面 |
今のR464になる県道が整備され、往復4車線化になったとき、困った事態が起きました。
小室駅へ向かう際、県道がR464に出会った後、坂下の八幡下に向かう道路へのアプローチが逆向きの一方通行ゆえ取れなくなったのです。
結局駅のほうに向かい、線路をまたぐ橋を経て、元のルートに合流しましたが、合流した時点で駅はもう目の前。しかし律儀に八幡下バス停を設けたのです。
小室駅前。後方のマルエツは後に閉店 |
ニュータウン開発の初期に入居していた小室は、新しい街がどんどん東に移るに連れて見劣りがするようになりました。ただでさえ計画との乖離が激しい千葉ニュータウンで、衰退の色を見せてきたのです。
そうした中、2000年8月の大改正で、伝統の八幡下ルートは終焉しました。
船07はハイランド経由となり、鎌ヶ谷大仏からの入出庫運用は全滅。豊富農協前の乗り入れもなくなり、旧豊富村時代の名残りとも言える豊富の拠点性が完全に失われました。
同時に三咲駅からの系統も消え、小室の地盤沈下が鮮明化します。2003年には東洋バスも撤退。20年の昔に戻ったような感じです。
小室の駅前に立つと、こじんまりとした交通広場とコンビニが出迎える姿は、首都圏有数のニュータウンのそれとは思えません。
街開きの頃は、白井、印西と印旛郡の町と比べて、千葉県第二の都市である船橋「市」の看板を背負った小室にこんな日が来るとは思わなかったことでしょう。
それでも船橋市を縦貫する船07は、小室の栄枯盛衰を見つめながら今日も走るのです。
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