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90年前の未成線
今も残る「船橋鉄道」の遺構を訪ねて
今の東武野田線となる北総鉄道が開業する前の大正初年、東武野田線のルートとは別ルートで船橋と柏を結ぶことを目指した鉄道がありました。
その名は「船橋鉄道」、開業することなく消えた経緯から、ありがちな「予定線」のように思われがちですが、実は建設に着手しており、その後会社の支配を巡るゴタゴタの末、建設どころか会社の存続も困難になり、免許取り消しとなっています。
着工から93年、免許取り消しからも89年がすでに過ぎ、その痕跡はほとんど残っていないかと思われるところ、実は奇跡的に残っているのです。
工事から90年、しかも未成線の痕跡はどのように残っているのか。この夏現地を探って見ました。
いかにも、という空間だったが...(本文参照) |
写真は2007年8月撮影
※2007年10月2日 新事実発覚により補遺・改稿
船橋と大宮を結ぶ東武野田線。このうち船橋−柏間は大正10年に免許を受け、大正13年に開業した北総鉄道(のちの総武鉄道)を昭和19年に東武鉄道が合併したものです。
北総台地を一直線に船橋から柏まで貫く路線は、千葉県内では新京成以前にはこれだけとも言える環状方向の鉄道であり、総武線、常磐線の両省線を結ぶ重要な役割を担ってきました。
蒸気鉄道での開業で、無煙化はされましたが電化されたのは東武合併後の昭和22年。近年まで複線区間もわずかというのんびりしたムードのなかを釣り掛け車が走るというものでしたが、今はイメージを一新しています。
さて、北総鉄道が開業する以前にもこの区間での鉄道開業を志した会社がありました。
それも、免許を受け、工事認可を受けて着工までしていたのです。
残念ながら諸般の事情で工事は一部で止まり、開業には至りませんでしたが、約90年前の未成線の遺構が船橋の地に眠っているのです。
●船橋鉄道概略
この鉄道、「船橋鉄道株式会社」というのですが、会社に関する資料が極めて乏しいのが特徴です。
鉄道ジャーナル昭和53年4月号の特集「房総の鉄道」においても、青木栄一氏が執筆した箇所の付図では免許が大正2年の未成線が描かれていますが、鎌ヶ谷を経由するルートとなっており、後の北総鉄道と混同している可能性があります。
昭和63年に船橋市史編纂委員会が発行した「船橋市史研究第3号」に佐藤信之氏が発表した「船橋鉄道の挫折と北総鉄道の開業まで」が唯一のものといってよく、それも船橋鉄道という会社の経営史を中心にした記述のため、どのようなルートなのかという部分については未だ謎に包まれています。
同書に基き船橋鉄道株式会社としての略史を述べると、大正元年に船橋町(当時)の住民を発起人にした船橋−柏間の蒸気鉄道(軽便鉄道。ただし軌間は1067mm)の出願があり、大正2年免許の交付を受けました。
大正3年に工事認可の申請が出され、同年認可が下り、着工に至ります。
ところが工事認可申請の途上、発起人内部での内紛が発生し、発起人代表が解任される騒ぎになり、工事認可の申請も3ヶ月の延期願いを提出するなどのごたごたが続き、株式の払い込みもままならぬ状況になるに至りました。
この間、不正経理や背任で会社は荒廃し、結局大正7年に工事認可の延長が却下、同時に免許も失効になり船橋鉄道は終焉しています。
路線予定ルートには、船橋駅より八栄村夏見、米ヶ崎、高根、金杉、二和、三咲、豊富村神保新田、大神保、八木ヶ谷(以上船橋市)、白井村富塚(以上白井市)、風早村藤ヶ谷新田、塚崎、大島田、大井(以上柏市沼南町)などの字名が見えます。
このことから東武野田線ルートと違い、現在の船取線の東側に円弧を描くように走るルートが想定できます。
●空中写真に残る遺構
国土地理院の国土変遷アーカイブにある戦後すぐに米軍が撮影した空中写真にはこの船橋鉄道の遺構が見えるものが少なくありません。
USA-M860-66などを見ると、現在の緑台付近や高根町に谷津田を貫く築堤の跡が見えるのです。
このほか上掲書によると大神保町にも痕跡があるようですが、空中写真からはうかがえません。
空中写真に残る痕跡を見ると、御滝不動付近から南西に真っ直ぐ伸びる軌道敷のラインがまず目立ち、金杉と緑台の間にある念田川、そして緑台と高根の間にある高根川に築堤が見えます。さらにうぐいす園付近で船取線と交差する宮前川の谷津田に築堤のラインが見えます。
ただし船橋駅付近に痕跡は見当たらず、夏見の台地の南東をかすめるように北東から、つまり東武野田線とは反対側から船橋駅にアプローチする計画だったと思われます。
この痕跡が残る区間について、この夏訪れて見ました。
●宮前川付近
かつて新京成バス高根線が走っていた道路は城の内付近で地道を器用に渡り歩いて下高根に向かっていました。
このルートが船取線と交差して高根の台地にあがるあたりで交差するのが宮前川。台地に上がり、下高根から神明神社前に向かう高台の道から南西に分岐するように伸びる軌道敷が空中写真では確認できます。
正面の台地の右手から左手の船取線方向がルート |
バスが通っていた道よりもやや南側で今の船取線と交差する格好ですが、現地に行くとかつてのバス通り、船取線、周囲の田んぼにそれらしき痕跡は最早はありません。
船橋方面からかつてのバス通り方向 |
道路はさておき、田んぼは谷津田の自然地形に従っているだけに、何かしらの痕跡を期待していたのですが。
ただ、宮前川と交差していたあたりには事業所があり、谷津田の底に当たる箇所への盛り土については築堤の跡を活用したのかもしれません。
宮前川とかつてのバス通りの交差付近 |
●高根川付近
神明神社前から宮の内、高根を通り高根小学校前に向かうかつてのバス通りに対し、緑台方面に真っ直ぐ向かっているはずの軌道敷ですが、空中写真の段階でその痕跡がないところから、工事に入れなかったのでしょうか。
神明神社前と下高根間。軌道敷は左前方へ向かった |
次に空中写真で痕跡が見られるのは高根から緑台の間を通る高根川の谷津田を通る築堤。
ここは擬定が非常に難しく、現地で見るとそれらしいあぜ道のような道路が何本かあり、おそらくこれでは、と思っていたんですが、後述する金杉側の遺構との関係を踏まえて通るであろうラインが団地から出てくる位置を推定し、そのラインが通る位置にある団地側から谷を見下ろす位置にある駐車場に出ると、なんと90年近く経った未成線のラインが目の前に現れたのです。
谷津田にある建設関係の事業所。この2軒並んだ事業所の間に不自然な細長い空間があり、高根側の台地に向かっています。
ご丁寧にもその先の田んぼもこのラインを区切りにしており、谷を切り裂くように築かれた築堤がここにあったことをうかがわせます。
(以下10月2日補遺)
実はこの「空間」を発見したのは2度目の探索時。諸般の事情で2回に分けての探索だったのですが、初回に見たのは上記の「それらしいあぜ道」であり、上掲書に出ていた写真とどうもアングルが違ってるようでもあり、再訪したのです。
これで一件落着と思っていたんですが、本稿を仕上げてからどうも気になって、グーグルの空中写真を見てみました。
すると、後述の金杉側の遺構とこの空間の位置が微妙にずれています。戦後の米軍空中写真では一直線に近いラインだったはずで、これはどうも変です。
場所特定の作業として、今度は空中写真をUSA-M377-147にして、位置を特定すべく谷筋の形態や周辺の地割をピックアップして見ました。すると、なんと高根川を越えた台地の上、神明神社のほうから船橋東高の方へ向かう地道の形態が一致します。さらにこの道あたりから「7」の字を描くように微妙な曲折を見せる地道も一致します。米軍空中写真ではこの「7」の字の右肩に築堤がぶつかる感じであり、現在その位置にあるのは初回の探索で除外した「それらしいあぜ道」だったのです。
高根方面の台地に向かう築堤跡の道 |
緑台自治会の駐車場へのアプローチとなっているこの道、なんとなくそれっぽい感じはしたんですが、確信が持てずにいったんは候補から消してしまっていました。
結局2回目の探索時の金杉側の築堤のラインの延長線の推定が数度ずれていたのがこの失敗につながったわけです。
それにしても、船橋の道路事情が悪く、昔ながらの道を舗装しただけとはよく言われる話ですが、60年前と同じラインがしっかり残っているとは思いませんでした。宅地開発はもちろん、農地であっても圃場整備その他の改良がなされているはずというのに。
●念田川付近
ある意味一番有名な遺構でしょう。現在でもはっきりと残っているのです。
金杉側から見た築堤 |
緑台と金杉7丁目の間を流れる念田川の谷が両地を隔てていますが、その高みをつなぐように今でもその築堤が残っているからです。
木が生い茂り、獣道のようになった築堤は緑台側が駐車場となったため塞がれており、金杉側からはすぐに念田川の谷に降りる階段を下り、改めて緑台に向かう階段に取り付く必要がありますが、そのためもあってか、約90年たった今でも当時の姿をよく残しています。
念田川の谷から見た築堤 |
新高根や南三咲方面からの水流を集める念田川はこの築堤によって分断されており、暗渠の水路となって交差しています。
水量も知れているので、橋梁にしないでも影響は少なく、現在も築堤を壊して流路を確保せずにそのままであるのでしょう。
生い茂る木々の太さは90年の年月を物語っており、せめて由来を示す掲示でも在ればと思います。
緑台側は獣道同然 |
●そして御滝不動へ
金杉側の築堤からは金杉7丁目の住宅街に飲み込まれます。
現在の地割りに基く道路は築堤の延長線と微妙にずれており、未成線の遺構が影響した可能性はないようです。
ただ、西側に食い込む念田川支流の谷の地形と並行と言えばそれまでなんでしょうが、南北方向の道路はその先の東西方向の道路と直角ではなく、微妙に東北−南西方向に傾いており、その傾きは築堤の延長線と並行になるのです。
金杉側の住宅地。正面に緑台の給水塔 |
その先住宅地の地割りは南北方向が直角に変わり、桜ヶ丘の交差点から滝不動駅に向かう道路と交差し、マルエツの敷地のあたりを北上して御滝不動に向かっていますが、空中写真で見受けられる軌道敷の脇にある旧家のあたりを見ても、地割りにそれらしい痕跡はありませんでした。
このあたりで交差していたはず |
●柏へ、そして90年後に想う
空中写真でも分からないルートですが、上掲書記載の字名や、白井村富ヶ沢までは着工したような記述もあるわけで、それを地図上で見ると、御滝不動の東側(現在よりも西側に道路があった)を北上し、二和町から三咲町、八木ヶ谷町に至るあたりは鎌ヶ谷、白井との境に寄ったのか、三咲を経て小室に向かう県道の北側を通ったのか。
富ヶ沢は白井市復のあたり。富塚に至るのにこちらを回るのは発起人の意向でしょうか。富塚からはR16に並行するように柏に至るルートです。
このルートを見ていて気付くのは、鎌ヶ谷市域を通らない、鎌ヶ谷を避けるように東を回りこんでいることです。
鎌ヶ谷大仏のあたりは江戸時代に大仏を建立するほどの勢力がある拠点であり、東葛人車軌道もこのあたりまで行徳、中山から伸びてきていました。あえてそこを通らずに、鎌ヶ谷村を丸ごと避けるように通るルートには意図的な何かを感じます。
なお上掲書によると、当初は豊富村を通らず鎌ヶ谷村を経由することになっていたようで、船橋鉄道の発起人内部の紛糾もこのあたりのルート選定、変更と大きく絡んでいるのでしょう。
船橋鉄道の挫折から89年。緑台の築堤を除けば当時の様子を示すものはほとんどなくなりました。
歴史にイフは禁句ですが、もし船橋鉄道が柏まで開業していたら、北総台地の交通、というか開発も変わっていたかもしれません。
千葉ニュータウン西部の開発エリアである白井市あたりも、船橋鉄道沿線の既存市街地だったかもしれませんし、鎌ヶ谷市は交通の要衝とはいえなかったかもしれません。
経営よりも内紛で陽の目を見なかった船橋鉄道は消え去りましたが、歴史のイフという意味ではその挫折が果たした役割は大きかったのかもしれません。
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