このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

常磐線 赤電時代の中距離電車

新京成沿線に住んでいたため、都内へ出る時には常磐線もよく使っていました。もっとも、かなり遅くまで鎌ヶ谷大仏折り返しがあるなど津田沼に出るよりも本数が少なかったこともあり、利用頻度は限られていましたが。
そうした中で、首都圏の電車でも異彩を放っていた中距離電車の想い出を述べて見ましょう。

上野で発車を待つ「赤電」(1982年撮影)



常磐線というと、「首都圏五方面」の中でも異色な存在というイメージがあります。その一つとして中距離電車の存在が作用していることは疑いのないところでしょう。
各駅停車と快速電車、もしくは中距離電車の組み合わせによる複々線が五方面のスタイルですが、常磐線についてはエメラルドグリーンの快速電車があるところに、さらに中距離電車が存在していました。その停車駅が異なる中距離電車は、何か特別な存在として子供心にも興味を惹かれました。

この組み合わせは中央線も同じだったのですが、中央線の場合は大月、甲府方面の中距離電車の本数がもともと少なく、その大半が立川や八王子、高尾折り返しでした。それでも新宿乗り入れの末期、新宿−立川間ノンストップ(最末期は下り夜行便を除き三鷹停車)に惹かれて乗りに行ったりしていました。

常磐線の場合は、1980年に入った段階での本数を見ると、下り26本、上り28本と今から考えると隔世の感がある本数しかなく、日中は毎時1本しかない存在でしたが、それでも快速の本数自体が日中は10〜20分間隔と少ないだけに、存在感がありました。

この中距離電車、使用車両は401系、403系、415系となっており、ローズピンクのベタ塗りに、前面だけクリームの警戒色という風貌に、「赤電」の愛称で親しまれていました。
そして取手−藤代間のデッドセクションを通過する交直流電車ということでの重厚な装備、そしてデッドセクションで消える電気と、異色ぶりを遺憾なく発揮しています。
さらに401系は近郊型なら高運転台という常識を覆す低運転台があったり、403系の最終編成を除いてグローブ式ベンチレーターだったりと、総武快速線の113系と比べると古色蒼然とした面もありました。

クハ401低運転台車(1988年撮影)

そしてその最大の特徴は停車駅です。国電快速があるのに、「普通」を名乗る赤電の停車駅は、取手までの間で快速より5駅も少ないわずか3駅でした。
そのためか駅では、各駅停車の千代田線もあるし、快速よりも停車駅が全然少ないし、「普通」と案内できず、もっぱら停車駅を呼び上げて案内していたのです。

例えば松戸では、「日暮里停車の上野行きが参ります」(朝ラッシュ時は「北千住、日暮里停車の上野行き」)でしたし、取手では「我孫子、松戸、日暮里停車の上野行き」と案内していましたが、取手のそれは国電区間最遠の地からこれしか停まらない、という特別なイメージを出していました。

そして駅の表示は停車駅を列挙するわけにもいかず、苦肉の策ともいえるのが「列車」の表記。これは今でも残っていますが、「快速」として扱われるようになっても、今でも残る「快速・列車」の表示には時代を感じます。

今も残る「列車」表示(松戸)、文字の色に注目


1980年10月の改正で赤電は全面的に柏に停車するようになりました。
今では常磐線最大の乗降客を誇り、「フレッシュひたち」が全面停車する大駅ですが、それまでは日中の5往復を除き総て通過していました。もっとも、1971年の複々線開業当初1年間は快速すら通過していたという信じられない状態でしたが。
そして1985年、朝ラッシュの上りだけだった北千住に全面停車し、1988年には天王台に全面停車、そして南千住、三河島も日中停車となり、2004年には全面停車するにいたり、上野−取手間は快速と停車駅が揃い、「快速」と案内されるようになったことはご存知の通りです。

いまではE531系やE501系の4扉車も増え、元からの快速電車との違いは行先と車種程度になってしまい、特別快速の設定もあり、中距離電車の「異色」というものも消えた感があります。
「赤電」「青電」と電車の色に応じて呼ばれていたのも、1985年のつくば博に合わせて編成が増強されたのを機に、白に青帯となり、そういう呼び名も廃れました。

現在の主役はE531系


最後に、常磐線の「列車」が「列車」た由縁でもあった客車列車の話です。
1980年に柏に赤電が全面停車したといいましたが、この時3往復残っていた客車列車は加減速が劣り、ダイヤ編成の問題があるのか除外されました。
この変則状態は1982年の改正で客車列車が廃止されるまで続きましたが、この時点まで客車鈍行、それも旧型客車が残っていたのも、常磐線の異色振りに拍車をかけていました。

上野にて(1982年撮影)

塾通いをしていた松戸からの帰り、新京成ホームから、平(現いわき)からの426列車が入ってくるのをよく見ました。
轟音を響かせてEF80が滑り込むと、そのあとに対照的な静寂の中、青いスハ43、オハ47を8両か10両連ねた編成が入ってきます。ホームには例の「日暮里停車の上野行きです」というアナウンスの後、「列車が停まるまで乗り降りしないでください」と手動ドアならではの注意が響きました。
下りは朝と昼の2本が常磐線を完走する仙台行き。昼過ぎに上野駅の地平ホームのはずれ、20番線から出る223列車にも何回か乗りましたが、あるときは満員でデッキのドアも閉められず、乗客がぶら下がるように乗っていました。
そういう客車列車、趣味的に狙って乗るのであれば面白いんですが、期せずして出会うこともあったのが常磐線です。ある夏の日、松戸へ出て常磐線で日暮里に出ようとしていたら、今度の列車は「日暮里停車の上野行き」とのこと。そしてやって来たのが浪江からの422列車。幸い座れましたが、暑い夏の日、103系快速も非冷房が多かった時代とはいえ、重厚な客車はひときわ暑かったことを覚えています。

そしてそういう「列車」を支えた快速も、爆音を響かせて疾走する103系からE231系になり、常磐線の往時を思い起こさせるのは403系と415系となってしまいました。

仙台行きの案内(1982年撮影)





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