このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

京成電鉄、4駅改名の思い出

1987年4月1日、京成電鉄は4つの駅の駅名をいっせいに変更しました。
その日は国鉄がJRとなった日。大手私鉄としてはあんまりな駅名、として有名だった「国鉄千葉駅前」の駅名も国鉄がなくなってしまっては変えざるを得ません。そこに3つの駅がお相伴に預かった格好ですが、当の「国鉄千葉駅前」は大胆なトレードを演じてもいて、一夜にして変わった駅名にはしばし戸惑いました。
ちなみに、この4駅を最後に消えた格好の旧タイプの駅名標ですが、墨痕鮮やかな書体と、草かんむりを「十 十」と正字で書いているのが特徴です。

国鉄千葉駅前


写真は1987年撮影(原本が縁あり仕上げのため空白があるのはご容赦)


バス停や路面電車の電停が「XX駅前」というのはよくある話ですが、鉄道の駅、それも大手私鉄の一員である鉄道の駅が「XX駅前」と名乗るのは、プライドも何も無いのかい!と言いたくなるような話です。
その昔、今のJR各社は「国鉄」でしたが、その末期は莫大な負債に事実上の破綻処理ともいえる格好での分割民営化に追い込まれたように、大手私鉄の足下にも及ばない零落ぶりでした。

ところが、その大手の一角、京成電鉄には、その国鉄の駅前に「国鉄千葉駅前」と題した駅があったのです。
せめて「京成千葉」にしろよとも言いたくなりますが、これが悪いことに一駅先の終点が「京成千葉」でした。千葉の中心街と言うのはかつてはその「京成千葉」周辺から東にかけてであり、もともと国鉄も千葉駅が今の東千葉にあり、房総東線、西線はスイッチバックの格好で南下し、「京成千葉」のあたりに本千葉駅がありました。
京成はと言うと、千葉市の中心街に真っ直ぐ入っていたのですが、国鉄の路線変更に伴い、中心街の西側、房総東線に並行する形に移設を余儀なくされてしまい、国鉄本千葉を譲り受ける格好で「京成千葉」を設けたのです。

国鉄千葉駅前。今は背後にそごうが立つ

こうした歴史を秘めながらも情けなさが先に立つ「国鉄千葉駅前」でしたが、1987年4月1日、国鉄の終焉とともに改称したのはなんと「京成千葉」。隣と同じ駅名では、と思いきや、隣の旧「京成千葉」は「千葉中央」と改称したのです。
千葉の中心がJR駅のほうに移りつつあった当時、「中心街」であることを再アピールした感じですが、それまで「国鉄千葉駅」「京成千葉駅」と使い分けていた人々にとっては、一夜にして「京成千葉」が移動したのには面食らいました。
今のミラマーレ、当時は千葉きっての映画街でしたが、このあたりを当たり前に「京成千葉」と言っていたのが通用しなくなり、「京成千葉、じゃなくて、なんだったっけ...」と言い直したことも多々ありました。

京成千葉。背後のダイエーは今は無い

皮肉にも「中央」と言い出してから斜陽に拍車がかかったようで、「国鉄千葉駅前」の駅名標の後ろに広がる空間はそごうの駐車場でしたが、ここに新しい千葉そごうが建ち、「京成千葉」の駅名標の後ろに立つダイエーは閉店しました。
高校生の頃、ダイエーに入っていたPCショップのデモ機で、簡単なコマンドを入力して、画面を文字が走る、という単純なプログラムに喜んでいたのを思い出しますが(しかも記憶媒体がカセットテープ)、その頃寄り道の定番だった中央4丁目のセントラルプラザも今は無く、見る影もありません。

余談ですが、千葉に出入する路線バスは、国鉄、京成の両千葉駅を経由したり起終点にしているわけですが、今でこそ「千葉駅」「千葉中央駅」と分かり易い?のですが、当時は国鉄、京成の微妙な表記の違いで区分けしてました。

国鉄千葉駅
 そ ご う

これはベーシックパターン。京成駅に入らずに国鉄駅を終点にしていたもの。

国 鉄
そごう
京成千葉駅

これは国鉄千葉駅に入ってから京成千葉駅に向かったもの。
広小路方面からパルコの前を経て国鉄駅に入り、中央2丁目経由でセンプラの前から京成駅に向かったものと、中央4丁目、2丁目から国鉄駅に入り、富士見東電前交差点から京成駅に向かったものがあった。後者は茂原急行線などの長距離優等系統がメイン。

京 成
そごう
国鉄千葉駅

これはレア。中央バスの一部にあった系統で、中央4丁目からいったん京成駅に入って、もう一度戻って中央2丁目から国鉄駅に向かった。

京成千葉駅

成東系統がこれ。東金街道から真っ直ぐ京成駅に入っておしまい。ただ、国鉄駅に寄らないのはさすがにまずいと悟ったのか、その後国鉄駅経由で京成駅に入る(センプラの前から単純往復)ようになった。

***
さて、残る2つはというと、「センター競馬場前」と「葛飾」です。

今の「船橋競馬場」のセンター競馬場前、「センター」とはなんぞや、と言うところですが、それはあの伝説の「船橋ヘルスセンター」がその由来。ヘルスセンターが閉鎖され、ららぽーとになってからもしばらくはその駅名で残ってましたが、「ららぽーと競馬場前」とはならずに、実も蓋も無い「船橋競馬場」になってしまいました。駅周辺の施設を見ると、ららぽーとを除けばあとは船橋オートレース場。だからといって、オートレース競馬場前ではあまりにも露骨過ぎますから、競馬だけにしたのでしょうか。京成でららぽーとに行くと、競馬場とオートレース場のオケラ街道を行くことになるのはなかなかシュールです。
隣の谷津も「谷津遊園」から改称されており、遊園地の撤退で2駅連続の改称というのも珍しいのでは。

センター競馬場前。隣の谷津は一足早く改称


もっとも、その頃のららぽーとはダイエーとそごうがキーテナントの、言っちゃ悪いですが在り来たりのショッピングセンター。ファッション系のショップをメインとして成長するのはそれからまだしばらくのときが必要だったその当時、「ららぽーと」を駅名にするには力不足だったのでしょう。その後ららぽーとが力をつけてきて、駅名になってもよさそうなくらいになったときには、最寄り駅は船橋競馬場というより京葉線の南船橋になっています。

ちなみにセンター競馬場前は今の2面4線になる前は、船橋方の小踏切をはさんだ反対側にありました。ららぽーとへの無料送迎バス乗り場があるのが当時の駅前であり、駅前に今も「センター」の名を冠した歯科とともに、往時の名残を残しています。

そして葛飾。いまでも「(旧葛飾)」と駅名標に入っているだけ幸せというのでしょうか。駅周辺の地名というか、最寄りの拠点駅を意識した「京成西船」と言う駅名は、まだ「国鉄千葉駅前」のほうがストレートで素直な印象を受けます。
西船橋まではバス通りとはいえ歩道もろくに整備されていない道を歩くこと数分。乗換駅というより、JRが事故やストで停まった時に東西線につなぐエスケープルートとしての駅と言う認識でしょう。そういう事態における優等列車の臨時停車を想定してか、8連対応が早い時期に完成しているのも特徴です。

葛飾。旧タイプの駅名標は墨痕鮮やかな書体

それにしても、西荻窪が「西荻」というように、通称というか略称をそのまま地名にした安直を責めるべきなんでしょうが、それを駅名にしたことで、この小駅の印象をさらに下げてしまっている感じもします。
まあ、今では葛飾といえば、「生まれは葛飾柴又...」じゃないですが、東京都葛飾区の専売特許のような感じですが、そもそもは東京に加え、千葉県西部、埼玉県東部にまたがる広域地名であり、東葛飾郡、北葛飾郡の郡名にその名残があります。(東葛飾郡は沼南町の柏市合併で消滅したが、今でも「東葛」は千葉県北西部の地域名として生きている)
他の3駅と異なり、積極的に改名する理由もないわけで、別に葛飾のままでよかったのですが、改称されて18年余。それなりに定着したのでしょうか。





習志野原の交通局へ戻る

習志野原今昔物語に戻る

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください