このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
一つの時代が終わる時
〜新京成800系の引退によせて〜
京成グループの2010年7月17日改正で引退する新京成800系電車。その歩みを振り返ってみましょう。
なお京成グループでは車両の系列を示すとき、「系」ではなく「形」を用いますが、ここでは敢えて一般的な「系」としています。(当の会社が「系」を使うこともありますし...)
夜の帳に...(習志野・2010年7月) |
写真は1978年、1979年、1984年、2005年、2007年、2008年、2010年撮影
※2010年7月24日 補筆
●800系の登場
京成グループの2010年7月17日ダイヤ改正は、やはりなんといっても成田スカイアクセスの開業、新スカイライナーのデビューにスポットライトが当たっています。
新京成でも新鎌ヶ谷における成田スカイアクセスへの接続を前面に押し出した宣伝が目立ちますが、その影で高度成長期の新京成を支えた立役者でもある800系電車が引退します。
京成のお古なのに「新」京成とはこれいかに、と揶揄されるほど新京成は京成の中古車で運行されていました。
1970年に京成モハ210系のカルダン化に伴う発生品を流用し、車体を新造したモハ250系が、若干怪しいところはありますが唯一の自社新造車という有様で、それも京成スタイルと言うか、京成では既に赤電系列の増備が最終グループの3300系になっていた時代に、足回りは流用品の釣掛駆動で、よく言えば3050系、悪く言えば旧型車のイメージを色濃く残したデザインでの登場ですから、新味に乏しかったです。
その翌年の1971年に颯爽と現れたのが800系です。
デザイン自体は赤電系列に似ており、左右のおでこの前照灯、片引き扉であることから3100系との相似性が見て取れます。一方1M非ユニットと言う制御方式は独特で、新性能車といえばユニット制御と言う時代、どちらかというと京成750系などに近く、旧性能車との過渡期の車両とも言える存在です。
実際、同時期に更新された京成クハ2000系、2100系のほうが窓割などデザイン的には共通点が多く、3100系をベースにした更新車のグループに属するといったほうが正確かもしれません。
ちょうど6連化への時期と重なり、当初は4両編成での運用もあったようですが、ほどなく4+2連での6両編成での運用になっています。ちなみにこの頃から新京成沿線に住んでいましたが、4両編成など非6連での運用を見た記憶は少なかったです。
オリジナルの姿(高根公団・1978年) |
●新車の誉れ
この当時、100系の特別修繕は未実施の時期で、100系の半鋼製車4両を除けばさすがに全金属車に更新はされていたとはいえ、京成の中古旧型車のラインナップは相当見劣りを感じさせたものであることは確かでした。
そこに現れた京成の赤電ばりの新車は、やはり当たるとうれしい存在でした。
車内もシートの袖部の仕切りに天井まで立ち上がる握り手がつき、ドアは内張りがステンレスと、握り手が無く「つ」の字型や、古参車両の中には波を打つようなカーブを描いた袖部仕切りに、内張りもペンキ塗りのドアだった旧型車とは全然違う存在です。
(当時旧型車で握り手がついていたのはサハ1111〜1116と、モハ250系の第2編成のみ、ステンレスの内張りだったのはモハ250系とサハ1111〜1116のみ)
最後のパタパタ(高根公団・1978年) |
ちょっと不満だったのは運転台つき車両が中間で連結したとき、車掌室が締め切られること。また、運転台直後の「ヲタ席」が無く、立席スペースだったことでしょうか。(後に中間に入る運転台を完全に撤去した際、車掌室は開放された)
ちょっと変わったポイントとしては、4連は中間にサハが2両続けて連結されていましたが、サハ同士の連結側の車端部座席の袖部に肘置きにはやや高い、荷物置きスペースがあったこと。これは250系とサハ1106〜1116にもありましたが、いろいろ重宝しました。
車内見取。運転台直後は立席スペース(2008年11月) |
●最先端からの退場
6編成36両が揃ったのは1975年。そして栄光の座は長くは続かず、1978年に8000系が登場しました。
当初はオーソドックスな抵抗制御で、電制くらいが制御系における目立った新味で、両開き扉と冷暖房完備と言うのが特徴でしたが、いわゆる京成デザインを外れた大胆なデザインに、「タヌキ」いや「パンダ」だと沿線の注目を集めました。
特に冷暖房は新京成初のサービスでした。一般通勤車への冷房装置設置が国鉄を中心に一般化しており、特に総武線快速の冷房化率が全国的に見ても高水準だったこともあり、架け替え前の江戸川鉄橋の重量制限を理由に冷房改造が決定的に遅れていた京成とともに、冷房化の面では見劣りがした新京成にとって、8000系の登場はようやく時代に追いついたと言えます。
8000系は第2編成で白に茶色帯と言う現行カラーになり(今よりも白みを帯びていたような気もしますが)、第3編成からはチョッパ制御を採用し、さらに次代の8800系は一般鉄道の長大編成ものとしては日本初のVVVF制御車となるなど、三菱電機とのコラボレーションにより「技術の新京成」として「お古の新京成」がウソのような先進性を誇るようになっています。
新塗装当時(松戸・1984年) |
その影で800系は陳腐化が進んでいました。
塗装は8000系のように白に茶色帯となりましたが、冷房化はしばらく見送られました。
1985年からの冷房改造、8連化、そして1996年の東葉高速対応のスピードアップを目玉としたダイヤ改正への対応を考えると、性能的にも見劣りがしており、8連化の際にサハの一部廃車、モハの中間電動車化を行っていましたが、さらに5M3Tへの編成替えを行って、高速化ダイヤへの対応を可能にしています。
それと同時に前面デザインが数次にわたり変更されていますが、当初の端正な顔立ちに比べ、一時期は3枚窓の80系湘南電車のようなデザインになったりと、オリジナル以上の美しさを見せることはありませんでした。
また、車内側壁も化粧板からペンキ塗りになりましたが、化粧板の褪色もたいがいでしたが、ペンキの塗りムラも目立つわけで、これも美しさを損なう印象です。
朝の輸送力列車(北習志野・2007年) |
●そして終焉へ
しかしその時点で8800系に続く8900系もデビューしており、800系は基本的にはラッシュ時対応、日中は予備車的存在であり、側板の歪みや剥離も目立つような状況に、寄る年波を感じたものです。
その老体に鞭打つような800系の活躍ですが、実はもっと早く終焉のときを迎えていた可能性もあったのです。あくまで噂話、しかし鉄道ジャーナル2000年11月号にそれとわかる記事がぼかしながらも書いてあったのですが、琴電に譲渡される話があったようです。
上述の通り非ユニット制御の1M方式と言う編成を組む際の制約の少なさもありますが、何よりも冷房付きということで目に留まったようで、車両の寸法カットまで行って投入する計画だったそうですが、新京成の新車投入計画が予想以上の利用客減少により流れてしまい、800系が余剰にならなくなったことで立ち消えになったそうです。
もしこの話が本当であれば、800系の陳腐化を決定的にした96年の改正が、回り回って800系の延命に寄与したと言えます。いや、正確には96年改正の原因となった東葉高速の開通、そして高根台団地の建て替えによる津田沼口の輸送人員の急激かつ大量の減少(約2/3への減少)が8900系増備を断念させたのですが、いずれにしろその時代背景が800系をここまで延命したと言えます。
815F(京成津田沼・2005年) |
そうした800系にとって最後のご奉公の機会を増やしたのが皮肉にも京成千葉線直通です。800系自体は直通対応ではありませんでしたが、8800系の一部が6連化して直通用に回るなど、6連の比率が上がったことで、貴重な8連組として従前よりも活躍の幅が広がり、終日運用についている姿を見ることが増えた印象です。
しかし、最後まで残った2編成16両の終焉の日がついに訪れます。
新京成は2010年6月2日、同年7月17日改正の告知の中で、800系2編成が改正を機に引退することを発表しました。
輸送量の減少により、朝ラッシュ時の運転間隔を4分間隔から4分30秒間隔に伸ばしたことで、所要編成数を減らせたことにより、一気に2編成の退役が決まったのです。
おそらく当面は予備車不在で乗り切るのでしょうか、年度内にN800系の第2編成を増備すると同時にアナウンスされていますが、それでも1編成の減少で事足りる、しかも8連2編成を6連1編成で置き換えと言う現実は、新京成の置かれている立場を如実に表しています。
側面はこんな感じ(京成津田沼・2008年11月) |
●800系あれこれ
4+2の6連6編成というのが全盛期の姿でしたが、2連の連結位置が松戸方だったり津田沼方だったり一致していませんでした。
2連はモハ+クハですが、向きを均等にしてクハ+モハも揃えたということでしょうが、方向転換をすればいい話でもあります。
クハが製造されているのですが、これが先頭に立つことはあまりなかった、というか、1編成を除いて総てクハは編成中に封じ込めでした。
その1編成の例外が第1編成ともいえる編成で、801-851-852-802-815-866の6連を組んで活躍していました。
京成もそうですが、新京成の旧型車は基本的にモハ+クハの2連が基準でした。しかし更新されて6連固定編成とかになると、クハは編成内封じ込めになり、やがて中間車化改造の上サハになる、という経緯を辿ったものが大半です。(中には700系の編成中にあったクハ2201のように完全な中間車なのにクハというケースもあった)
そういう中で上記の801Fにおけるクハ866と、250系第2編成のみがクハが先頭に立つ編成でした。
(第一編成と違い、車体は新造だが1500系の更新扱いで誕生した編成。553-253-254-554の4連。250系第1編成とともに、そのどちらかに2連を連結して6連を組んでいた。ペアになる2連は、専らモハが5両あるため4M使用の6連組成時に1両余る系列から1105と220が選ばれ、一時期はそれになぜか100系の半鋼製車との2連が組まれていた。なお旧型車は編成が一定していないので、●●●Fという表現は出来ない)
クハ553が先頭に立っていた時代(左の編成・1979年) |
これ以外にクハが先頭となると、稀にクハ131、132のどちらかが先頭に立った編成があったのを記憶していますが、それほどクハ先頭の編成は珍しく、その中でも801Fは不動の存在でした。
801Fはある時851と852の連結順序を入れ替えました。また、事故修理だったのか、検査の関係だったのか、801+851を外して、別のクハ+モハを連結していたこともありました。
この時は852以外は全部先頭車。両端がクハという変則編成だったのを記憶しています。
あと800系の思い出というと、京成、新京成ではおなじみだっためくり板式の行先表示。
1979年から旧型車のそれが字幕に置き換わっても800系だけは板のままで残り、結局は字幕にはなりましたが、板の最後は800系だったのです。
このほか1991年からのごく短期間、1編成が北総開発鉄道(当時)に譲渡されていましたが、ちょうどその頃は利用者ではなく、記憶にありません。この編成は新京成と北総の乗り入れが終了したことで新京成に買い戻されています。
なおそれに先立ち、北総線への直通運用に800系も従事していました。
北総線に乗り入れた(NT中央、1984年) |
新京成の時代に大きな足跡を残した800系。その最後は7月24日、25日に行われるさよなら運転です。
くぬぎ山→新津田沼→八柱→くぬぎ山で1日2往復、予約会員制の運行が最後の運転となります。
8000系以降、京成スタイルとは一線を画してきた新京成にとって、最後の京成スタイルともいえる800系の引退は、ついに「お古の新京成」からの完全なる訣別を迎える、と言いたいところでしたが、2005年に京成グループ標準車N800系を導入したことで、再び京成と同じデザインの電車が走り出しています。
もっとも、それは「お古」ではなく、共通デザインの新車であり、「親のお古」から「オリジナル」を経て、「親と同じ新車」というステップは、新京成の成長を示しているのかもしれません。
ただ、「オリジナル」の時代には「親を抜いた」とまでいわれていたことを考えると、若干の忸怩たる思いもありますが...
【2010年7月24日 補筆】
2010年7月16日、ダイヤ改正前日の運用をもって800系は定期運用を終了しました。
最後の週、初めは夜まで終日運用に就くなど「最後のご奉公」を演出している感もありました。私もトップの写真を13日に撮った後、14日には夜半に酔って帰宅した際に当たったのが800系と、引退がウソのように出会っていました。
しかし沿線に「撮り鉄」が散見されるようになり恐れをなしたのか、ラスト2日間は朝方のラッシュ対応に出動するのみで、最終となった16日は9時前にくぬぎ山入庫となり、これが39年間の最後となりました。
このあたり、引退記念の乗車券を宣伝する広告に同居している缶コーヒーの宣伝が「朝専用まっしぐら」と実に意味深だったわけで、特に運用を特定していなかったため、ラスト2日間は日中以降空振りに臍を噛んだ方々も多かっただけに、そこにヒントが!というのは出来過ぎでしょうか。
「朝専用」のラストでした... |
そして7月24日からの2日間はさよなら運転が行われました。
新京成での「さよなら運転」は1990年以外20年ぶり。形式消滅もその時のモハ200系など旧型車以来のことになります。
最後の晴れ姿(高根木戸−北習志野) |
ひそかに期待していた塗装変更や、めくり板式の行先表示の「復元」(たとえダミーでも)等は一切なく、記念ヘッドマークの掲出と車側のシールくらいでしたが、創業以来空前の規模というような「撮り鉄」の放列の中、800系は最後の走りを楽しんでいました。
くぬぎ山への力走(習志野−北習志野) |
そして800系は39年活躍した沿線に別れを告げ、記憶の中へ走り去ったのです。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |