このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

北初富での乗り入れ時代

1979年に開業した北総開発鉄道(現・北総鉄道)は、新京成線北初富を起点として、小室駅を終点としていました。
現在は高砂まで開業し、京成線から都営浅草線、さらには京急線まで乗り入れている北総線も、当初は新京成線に乗り入れて松戸まで行っていたのです。
1991年の二期線開通後も新京成との接続駅が北初富しかないため、細々と乗り入れは存続しましたが、1992年、新京成が新鎌ヶ谷駅を開設したことで、13年にわたる乗り入れはその幕を閉じました。

全線立体交差の北総線と地平を走る新京成線の乗り入れ用に作られた専用のスロープを介してやって来た前衛的な北総7000系が新京成線内を走る様は、一種のカルチャーショックでしたが、新京成が乗り入れ用に用意した編成が最新の8000系、自社製造の800系でもなく、旧型の吊掛車だったというのもいい度胸をしていました。


もっとも、吊掛モーターが唸りを上げて、新京成の旧型車がニュータウン内の直線を爆走する様子は、勇壮であり、かつ、この電車はこんな性能を持っていたのか、と感嘆させるものがありました。

(撮影は総て1979年)


●当時の北初富

モハ113:行先表示幕を使い出した頃

1975年2月の複線化完成(鎌ヶ谷大仏−くぬぎ山間)まで、唯一片側棒線の非交換駅でした。(写真でモハ113が停車している側が元からのホーム)
複線化後も新京成で一番ひなびた駅という印象だった北初富に、沿線4番目の「乗り換え駅」、しかも相互乗り入れという脚光を浴びる駅になったわけです。

津田沼方面のホームをよく見ますと、細い屋根が新設されていますね。ほとんどが松戸直通とはいえ、津田沼方面からの乗り換えを想定して、ホームには屋根がつきました。編成のほとんど全部をカバーする屋根があるのは松戸と新津田沼くらいではなかったでしょうか。


●乗り入れのエース・北総7000系

「普通 松戸」表示の北総7000系(小室)

横から見るとΣ形をした先頭部デザイン、大きな固定窓でもちろん冷暖房完備の7000系。新京成カラーとは対比的なブルーの帯も涼やかに新京成線内に乗り入れてきました。
将来の京成線内乗り入れを考慮した種別表示も目新しくかったです。

当時は鎌ヶ谷大仏、くぬぎ山折り返しがあったため、そのくぬぎ山折り返しの枠を生かす形で直通運転が行われました。


●対する新京成は

左:200系(小室)、右:700系(北初富)

なんというか、というラインナップです。
後に800系、8000系、そして8800系の乗り入れもありましたが、当初は左右非対称の100系を除く全吊掛車が投入されたのです。

右の700系は京成からの転入組の中でも白眉といえる編成でした。京成最後の吊掛車でもあるわけですが、蛍光灯カバーがあったり、ちょっと「ワンランク上」の仕様と、ウィングばね式の台車は「格」の違いを感じさせられた名車です。


●連絡線を見る...

連絡線を下る北総7000系

現在の新鎌ヶ谷駅の西側、地平の新京成線のある側と反対側の北側に下りてきます。

高架線をくぐって合流ポイントに向かう

7000系の最後尾がある辺りに北総と新京成の分界点があります。北総線高架をくぐって線路はそのまま複線同士で新京成線に合流します。

北初富駅に進入する新京成500系の北初富行き

合流後、最初の踏切を過ぎたところで上り線から下り線へ渡れる片渡りのポイントがあります。北初富折り返しの線内電車は松戸行きホームから折り返してました。
北総線の高架はながらく上の写真の現在の国道464号線と交差する踏切の手前で終わってました。

ちなみに新京成名物のパタパタ式の行先表示、小室行きはかつての五香行きを流用した撥形で、北初富行きは複線化直前の数年間だけ存在した「幻の」初富行きを流用した菱形でした。
面白いのは北総7000系で、「北初富行き」の字幕は用意せず、前面貫通路に「北初富」の板を挿していました。


●こんな見どころも

北総線史上唯一の踏切

連絡線を行く電車を撮影したポイントなんですが、ここに北総線唯一の踏切が存在しました。
上記の通り、ここより北初富側に分界点があるため、この踏切は北総線内に存在します。

当時の駅名標。電車の本数が悲しい...

いまはありきたりの駅名標ですが、当時はこの斬新なデザインの駅名標でした。
時刻表と一体化、さらにホームと垂直方向にも駅名を記しているのもユニークで、26年前とは思えません。

そのほかにも、26年前に既に「自動精算機」が各駅にありました。といっても、切符を読み取るのではなく、指示に従ってボックスの中に入れると、遠隔操作で係員が見て、計算するというシステムでした。恐ろしくローテクに見えて、今の精算機でも対応できない非磁気券への対応が可能という能力の高さ?もあったのですが、利用客の増加で対応しきれず、駅員が常駐して改札口で精算するようになりました。
自動改札が各社に普及し、自動精算機が当たり前になったのはさらにその後のことです...

あとは、「インド式」と呼ばれた独特の大便所(JR津田沼駅にもかつてはあった)、待ち時間の長さを考えて商売になると考えたのか、カップラーメンの自動販売機があったりと、当時の北総線は見どころが多かったです。

新鎌ヶ谷信号所にて(見学会参加の友人から拝領)



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