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総武緩行線 103系を巡る想い出

今はE231系や209系500番台が行き交う総武緩行線。その昔は「黄色い電車」として親しまれてきたように、101系や103系、そして201系までは黄色一色の電車でした。

茶色い旧型電車を置き換え、初の新性能車として長く主力の座を占めた101系に比べ、既に中央線に「次世代」の201系が投入された後に現れた103系は、冷房化の立役者と言う面では意義深かったものの、新車と言う意味ではパンチに欠けました。
その103系の登場時と終焉の頃の想い出です。

ラシ310編成、津田沼にて(2001年2月撮影)



●103系の登場
1979年3月に津田沼電車区に登場した103系。10連全部を新製しながら、両端クハはATC車として、山手線や京浜東北線に残る非ATC車クハ(冷房車)と差し替えた編成がまず現れ、その後両端クハが高運転台、非ATCというオール新車で配属になっています。

1981年になると、ここに中央線豊田区からの転属車両が大挙して押しかけてきました。
これがオレンジ→黄色の塗り替えもなく転属されたのが大半とあって、総武緩行線内はにわかにオレンジの電車が幅を利かすようになりました。
なお1986年頃には山手線205系化の進捗による先頭車転属によりウグイス色の電車も存在していますが、その当時は東西線ユーザーだったこともあり(津田沼ユーザーだが直通を愛用していました)、記憶にないのが残念です。

オレンジの総武線(御茶ノ水・クハ103-824)
(1982年撮影)

余談かつ楽屋落ちですが、オレンジの総武線が増殖した頃、通っていた高校では「赤総武」とか、先頭車が黄色なら「忌引」、中間車が黄色なら「忌中」といいように言われていました。
普通の人にもオレンジの総武線が定着?していたため、房総ローカルが千葉に到着する時の案内が、「1、2番線の黄色い電車にお乗り換え下さい」というのが、「黄色またはオレンジの電車に...」とマジで替わっていた時期がありました。

字幕には「原町田」なんてものも
(津田沼)(1985年撮影)


●103系の時代、そして黄昏
希少価値と言う意味では101系、新車と言う意味では201系と、勢力は大きいものの非常に微妙なポジションにいたのが103系です。
それでも国鉄時代には新製冷房車で登場するなど、それなりに輝いていましたが、まあ103系がもてはやされたのも、頑なに101系が頑張っていた当時、7+3編成の3両2本しか冷房改造されず、冷房率がダントツに低かった総武緩行線ならではの特殊事情でしょう。

101系冷房車(津田沼)(1981年撮影)飯田橋行き表示の101系(津田沼)(1981年撮影)

ところがJRになるとどうも雲行きがおかしくなり、もともと7号車サハの一部に101系改造の750番台車が入っているのを除けば、中間車はユニット窓の新製冷房車だったのが、いつのまにか他の路線と差し替えられて、非ユニット窓の車両や、分散集中式の冷房車など、高年式車、つまりボロになってしまうケースが目につきました。

こうなるとますます103系は見劣りするわけですが、置き換えの気配もなく時が流れました。
これが一変したのは1997年から98年。相次ぐ故障に、とどめは配電盤から火花が飛んで乗客が負傷するに至り、当時の運輸省から指導を受けました。
これにより1998年12月、209系500番台が急遽投入されました。E231系によく似た、というかE231系のはしりとも言えるこの系列、京浜東北線などにいる209系と同じ系列とは思えない車両ですが、おそらくE231系のデザインを流用したような系列が登場するほどの泥縄式の置き換えになりました。

さらに同時期に登場した209系950番台は、その後JR東日本の主力車両となるE231系の試作車として登場し、実際、後にE231系に編入されています。

淘汰が始まった頃のラシ308編成
(大井工場公開にて)(1999年撮影)


●103系の終焉
経緯が経緯だけに103系は急速に姿を消していきました。
2000年にE231系の投入が始まると、わずか1年ちょっとで置き換えられました。

最後の時期、残ったのはATCタイプのクハを持つ327編成と、三鷹方に非ATCクハを持つ310編成でしたが、残念ながら最後まで残ったのは総武線固有とも言える非ATC車付きの310編成ではありませんでした。(厳密にはこの非ATC車は津田沼区新製配属ではなく「赤総武」組)

310編成の非ATC高運転台クハ(市川)(2001年2月撮影)

この時期、撮影名所の市川駅や下総中山駅にはカメラを構えたファンが多く押しかけていました。
そしてラストランは2001年3月23日(金)というウワサが流れ、最終運用と見られる電車が津田沼に到着し、103系の総武緩行線での活躍に終止符が打たれたと誰もが思いました。

快速線ホームから103系を狙う人達(市川)(2001年2月撮影)

ところが週末を挟んだ26日の月曜日、当時市川に住んでいた私は信じられないものを見ました。
南口の道路を駅に向かって歩いていると、頭上から聞き慣れた音が降ってきます。まさかと思ってみると、紛うことなく103系が停車しているじゃないですか。

ことの真相は定かではないですが、定説としては「ラストラン」のあと、しばらくは予備車扱いということだったのが、いきなり予備車出動と言う自体になったと言うことのようです。
どうも締まらない結果になった327編成は翌日も運用についており、サヨナラ気分が一気に吹き飛んでしまいました。

その3月27日夜のことです。残業して快速の時間がうまく合わず、秋葉原回りで帰ろうと秋葉原駅の6番線ホームに立つと、反対側5番線に103系が入って来ました。
御茶ノ水で折り返しは、間もなく到着する下り電車の2本あとになる電車で、どうしようか、せっかくだから待ってみようか、と一瞬考えたのも事実です。

この日はまだ火曜日。この時間に帰宅になったように年度末ということで忙しく、市川着が0時を完全に回ってしまうこともあり、翌日を考えるト身体もしんどいのでその20分程度を惜しんでしまいました。再登板の運用はまだ続くだろうと言う見方も有力でしたし。

しかし、その電車こそが本当の103系ラストランになったのです。
目の前を御茶ノ水に向けて走り去った327編成。深夜の邂逅が、最後の別れになりました。
日付変わって2001年3月28日の0時27分、津田沼に到着して103系は総武緩行線での22年の歴史に終止符を打ちました。

在りし日の327編成(市川)(2001年2月撮影)






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