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大阪電燈春日出發電所が開設されてから、80年。
2002年3月、大正年間からずっと市民に親しまれてきた春日出の発電所が、その歴史に幕を閉じた。
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大阪湾から安治川を遡ること約3キロ半。六軒堀川との合流地点に、春日出発電所はあった。
この地に初めて造られた発電所は、1918年に建設された旧春日出第一發電所であった。 国産初の大型タービン発電機を設置し、ボイラーにも日本初の下方給墨機を使用するなど、当時の最先端の技術を駆使した発電所であった。
続いて1922年に建設された旧春日出第二發電所は、4本×2列、計8本の煙突を擁する壮大な外観で、「八本煙突」と呼ばれていた。
こうして、東洋一の規模ともいわれた、大阪電燈春日出發電所が完成した。
☆ ☆
昭和初期、六軒堀川と安治川の合流地点には、第一・第二發電所の煙突が、合計10数本もひしめいていた。 これらの煙突は、日立造船や住友金属、大阪鉄工所、汽車製造会社などの大工場が立ち並ぶ工業地帯此花区を象徴する存在であった。
特に、第二發電所の「八本煙突」(4本×2列の煙突群)は、見る位置によって様々な本数に見えることから、東京の旧千住火力発電所(こちらは4本の煙突を菱形状に配置)と同様に「オバケ煙突」として市民に親しまれていた。
当時は發電所のすぐ脇に「三丁目の渡し」と呼ばれる渡し船があり、多くの人々が日々、「オバケ煙突」を見ながら安治川を渡って通勤・通学していた。 春日出發電所は、ごく身近な風景のひとつだったのである。
太平洋戦争末期には、工業地帯のシンボルであったがゆえに、發電所周囲の住居が建物疎開させられることもあった。 実際、此花区の工業地帯は6度にわたって大空襲を受けている。 しかし、發電所については、大きな被害は記録されていない。 占領後の復興を考えた米軍の方針だったのであろうか。
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1961年頃から大阪でも人口が急激に増加し、第二發電所では出力が不足するようになったため、これを取り壊し、跡地に「最新鋭重油専焼火力発電所」として新たに春日出発電所が建設された。 1963年に1号機、翌年には2号機が稼働し始めた。
これにより、「八本煙突」は失われたが、出力は約5倍に増強された。
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近年では火力発電所も大型化が進み、建設当時の「最新鋭」も小規模火力発電所に分類されるようになっていた。 小規模のものは大規模のものに比べて運転コストがより多くかかるため、春日出発電所も、南港発電所など大型の火力発電所に主力を譲り、普段は全く発電せず、もっぱら夏場の「波動」電力供給用として用いられていた。
そしてついに、2002年3月、究極の運転コスト削減、すなわち廃止に至ったのである。
このように、書類上は2002年3月の廃止だが、実質的には、春日出発電所は2001年9月あたりでその役目を終えていたといえる。 また、1号機に至っては数年前から停止されたままで廃止を迎えている。
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施設名 | 関西電力株式会社 春日出発電所 |
住所 | 大阪市此花区西九条7丁目1番22号 |
発電開始 | 1963(昭和38)年10月 |
敷地面積 | 約4万平方メートル |
出力 | 1号機 15万6,000kW(ボイラー:石川島播磨重工業、タービン発電機:東芝) 2号機 15万6,000kW(ボイラー:石川島播磨重工業、タービン発電機:日立製作所) |
貯油設備 | 5,000キロリットルタンク×10基 |
煙突の高さ | 80メートル |
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西暦(和暦) | 記事 |
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1918(大正07) | 春日出第一發電所 建設(1万2,500kW、タービン発電機:三菱長崎) |
1922(大正11)・11 | 春日出第二發電所 建設 |
1922(大正11)・12 | 大阪電燈 春日出發電所 開設 |
1944(昭和19)・09・17 | 安治川トンネル 開通 |
1961(昭和36) | 春日出第二發電所の跡地に春日出発電所の建設計画 |
1963(昭和38)・10 | 春日出発電所 1号機 稼働開始(15万6,000kW、タービン発電機:東芝) |
1964(昭和39)・01 | 春日出発電所 2号機 稼働開始(15万6,000kW、タービン発電機:日立製作所) |
1989(平成元)・01・31 | 「三丁目渡し」廃止 |
2002(平成14)・03・15 | 関西電力 春日出発電所 廃止 |
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春日出発電所の廃止は、関西電力の経営効率化計画の一環である。
運用コストのかかる小規模火力発電所は急激に淘汰が進んでおり、2001度だけでも、春日出の2基のほか、姫路第一(1〜4号機:42.2万kW)、多奈川(1〜4号機:46.2万kW)、尼崎東(1・2号機:31.2万kW)、尼崎第三(1〜3号機:46.8万kW)の4火力発電所の計13基が廃止された。 また、8火力発電所の計10基も運用が休止された。
地域の生活に密着した小規模火力発電所が次々となくなっていくことは、時代の流れとはいえ、とても寂しい。
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2002年10月から始まった春日出発電所の解体工事がいよいよ佳境に入っている。
解体工事は2002年10月、まず重油タンクの取り壊しから始まった。 重油タンクは、1日に1個(平日)という凄まじいペースで破壊され、更地になっていった。 続いて、煙突の周りに配置された集塵系統が分解され、やはり更地となった。
その後しばらくは平穏な日々が続いたが、2003年1月、重油タンク跡の更地に板が敷かれ、そしてその上に巨大なクレーンが現れた。 そしてとうとう、春日出発電所のシンボルである煙突に、解体の手が伸びた。 1月末から2月の頭に、1号機の煙突が取り壊された。 毎日、最上部から数メートルずつが輪切りにされ、クレーンで地上に降ろされていった。
2003年2月12日現在、写真(大阪環状線車内より撮影のため構図や画質に難あり)のように、1号機の煙突は跡形もなく、ボイラー棟にもシートがかけられてしまっている。 また、2号機の煙突の解体準備も進んでいるようである。 煙突下部に足場が組まれ、高所作業用の足場も煙突を囲うように設置されている。 1号機のときの解体速度から考えて、春日出発電所の煙突は、あと2〜3週間程度で姿を消すかと思われる。
写真撮影等をお考えの方は、お急ぎを。
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© 2002-2003 Chisato Hayahoshi
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