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政党名 | 得票数 |
---|---|
日本共産党 | 21956.682 |
第二院クラブ | 7130.707 |
維新政党・新風 | 515 |
女性党 | 2766 |
無所属の会 | 1177 |
保守党 | 10973 |
民主党 | 51291.566 |
新社会党 | 1907.509 |
自由連合 | 4282.537 |
公明党 | 39317.496 |
自由民主党 | 236994.455 |
社会民主党 | 52939.188 |
自由党 | 71370.013 |
新党・自由と希望 | 4818.643 |
まず、表「参院選比例区の得票数(富山県)」を見ていただきたい。 この表は、昨年の参議院選挙(比例区)での、富山県における各政党の得票数を示したものである。
一目見て、不審に思うこと。
「端数がある」
そう、整数値であるはずの票数が、小数第3位まで示されているのである。 これは一体どういう事であろうか。
☆ ☆
実はこの端数は、案分票によるもの、つまり、1票を複数の候補で分けた結果である。
有権者の中には、投票用紙に候補者の姓(あるいは名)しか書かずに投票する人もいる。
このとき、もし同姓(あるいは同名)の立候補者がもう1人存在したらどうなるか。 どちらに投票したのか、はっきりしないことになる。
しかし、この票も明らかに、2人のうちのどちらかに対して投じられたものであるから、おいそれと無効票にはできない。 できる限り有権者の意志を生かそうとしてこそ、公正な選挙ができるというものである。
ならば、その1票を2人で分け合ってしまおう、というのが公職選挙法の考えである。 そして、その際には、より有権者の意志に近い形で票を分けるために、等分するのではなく、得票数に応じて比例配分(案分)する方法がとられる。
(この際、小数第3位までを各候補者の得票とし、それに満たない端数は切り捨てられる。先の開票結果で票数が小数第3位までとなっていたのは、このためである。)
これが、案分票である。
☆ ☆
案分票を投じることは、当然ながら、複数の候補者に票を投じる結果になる。 配分の割合こそ他の投票によって決まるものの、たった1票で、複数の候補者の得票数を増やすことになるのである。
そして選挙では、得票数がたとえ0.001票でも多ければ、それで当選が決まる。 (完全に同数の場合はくじ引きとなる。) 従って、0.001票差であっても1票差であっても、候補者の当落を決める上では同じ意味を持つことになる。
つまり、案分票は、状況によっては複数の候補者にそれぞれ1票ずつ入れたのと同じ効果をもちうるのである。 極端にいえば、1人で2票、3票と投票しているようなものである。
果たしてこれが、公正な選挙といえるのであろうか。
有権者の意志をくみ取るための努力が、かえって選挙権の平等性を損なってしまっているのではないだろうか。
☆ ☆
有権者の意志は無視できない。 案分すれば不平等になりかねない。 ならば、どうすればよいのか。
答えは簡単。 案分しなければならないような票が存在しなければいいのである。
そもそも案分票は、候補者の名前を投票者が書く(自書式)から発生するものである。 候補者名を一覧から選ぶ形式(選択式)ならば、苗字だけを書くといったことはできない。 従って、案分票は生じない。
一般的には、投票用紙に印刷された候補者名の一覧の中から1人を選んで、名前の上の欄に○を付ける方式が、選択式の投票方法として利用される。 また、6月下旬に行われた新見市長・市議選挙は全国初の電子投票として注目されたが、これも画面に示された候補者一覧から1人を選んで投票する仕組みであり、選択式の良い例であるといえよう。
ただ、選択式は現在、地方選挙でしか認められていない。 国政選挙では、自書式の投票用紙を用いることになっている。
実は、一旦は、国政選挙にも選択式を導入することが決まっていた。 ところが、まだ1度も選挙をしないうちに、公職選挙法が再改正され、元の自書式に戻ってしまったのである。
☆ ☆
有権者が投票用紙に「候補者の名前を書く」という行為をする際には、○を書くだけの記号式に比べて、より明確な意志が要求される。
すなわち、記号式は手軽なだけに、候補者の選択もまた、気軽に、無責任に行われてしまいやすい傾向がある。 自書式の方が、投票者1人1人に責任感を、言い換えるなら1票の重さを、自覚させやすいといえるのだ。
自書式の長所は右のように考えられるが、これを別の角度から見ると、こうなる。
自書式は投票に伴う責任感が大きいので、聞き慣れない名前を投票用紙に書くのには抵抗がある。 慣れた名前の候補の名前を書く方が安心感があるので、現職の名前は比較的気軽に記載できる。 従って自書式は、新顔より現職の候補に有利な方法であるといえる。
そう、国政選挙が自書式に戻された主な理由は、現職の国会議員が選挙戦を有利に進めるためだったのである。
☆ ☆
国会の在り方は、選挙制度の在り方によって大きく変わりうる。そして、その選挙制度は国会が決めるものである。
このため、選挙制度は、今の議員に都合の良いように改悪される危険性を、常にもっている。 いや、実際、先に述べた自書式の導入中止のように、様々な改悪がなされてきた。 そして一方では、もちろん、文字通りの改「正」も、いろいろと行われてきた。
選挙制度は、「永田町の論理」に振り回されてきたのである。 言いかえれば、選挙制度には、国会の現状、政治の現状が、はっきりと映し出されているのである。
現在、郵政民営化や特殊法人廃止などといった「小泉改革」が行われようとしているが、これらの「改革」は、はっきり言って、単なる対症療法である。 『こんな弊害が出ているから、この制度はやめましょう』と言っているだけであって、日本の将来像は、これらの「改革」からは見えてこない。
制度は悪くない。 制度を悪用する者が悪いのだ。 弊害が生じるのは、利得に走る連中がいるからである。 人が変わらなければ、制度をいくら変えても無駄である。 本当に変わるべきなのは国会である。 周りの環境をいくら変えても、それはその場しのぎの「改革」に過ぎない。 自らに対する荒療治こそが、唯一の根本的な解決策なのだ。
そう、今後の日本を占うカギは、他のどの「改革」でもなく、選挙制度改革なのである。 そして、案分票の取り扱いは、この改革の進行状況を示す、最も身近な指標の1つであるといえよう。
案分票のゆくえこそが、日本のゆくえなのである。
© 2002 Chisato Hayahoshi
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