このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

序論
 塩原軌道(塩原電車)は、当時としては珍しい観光電車であり、この地に鉄道が敷かれたことからも、塩原は日本で有数の観光地であったと思われる。
 廃線跡をたどってみると、ほとんど何の痕跡も見つけることができず、唯一、関谷から塩原方面に向かった森林の中の上り坂に廃線跡の感じが残っていた。地元の人達から話を伺いながらの調査であり、とくに年配の人達の懐かしい思い出話をして頂いたことがかなり参考になった。
 この時期、塩原近辺は熊が出没するという噂を聞いており、かなり緊張しながらの怖い調査でした。(笑)
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関谷からの大カーブの先に残る廃線跡
塩原軌道(塩原電車)の概要
 塩原軌道は1912年(明治45年)7月8日に、西那須野〜関谷間が開通した。イギリス製の蒸気の気動車による運行であったが坂道で力がでず、のちにドイツ製の蒸気機関車が導入された。
 当初の計画であった電車に変更されるのに伴い、1921年(大正10年)9月23日付けで社名を塩原電車と変更し、翌年4月9日には路線も塩原口(現在のがま石園地、尾崎紅葉の碑がある所)まで延長された。しかし、金融恐慌や乗合自動車の普及により経営は悪化し、1935年(昭和10年)12月9日に廃止となり、23年の歴史に幕を閉じた。
 なお、塩原の御用邸に向かう大正天皇が乗車されることがあったが、1919年(大正8年)頃から自動車を導入し、西那須野駅から直接御用邸へ行くようになった。
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