このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


中国−10 長春の偽皇宮・国務院編


 ラストエンペラー溥儀。数奇な生涯を送った彼は、1932年から45年まで長春に住んでいた。2つの国で皇帝となり、かつ監獄に収容された人間は世界史上、彼しかいないだろう。ちなみに収容所は遼寧省撫順市で撫順戦犯管理所として一般開放されており、その中に改造末代皇帝陳列室という建物がある。思想改造を堂々と表明するのは世界広しと言えども中国共産党政府くらいであろう。

<ラストエンペラー溥儀の生涯>
1906誕生
1908宣統帝として即位
1912辛亥革命で退位
1914中華民国大総統令で退位協定が一方的に廃止される。
1932満州国建国。執政に就任。
1934満州国の初代皇帝に就任。
1935来日。
1937蘆溝橋事件。日中戦争勃発。
1945終戦。満州国消滅。ソ連軍満州を侵略。国共内戦。
1950戦犯として収容され、思想改造を受ける。
1959出所。一市民として余生を送る。
1967逝去


 彼が住んでいた皇宮は偽皇宮陳列館として開放されている。長春駅からタクシーで10分程度の距離だ。
緝熙楼
写真下の石碑には「9月18日を忘れるな」と江沢民が書いている。1931年9月18日の柳条湖事件だ。
勤民楼
 
最初に見えるのが緝熙楼であり、溥儀が1932年から45年まで居住した建物である。書斎では、関東軍の高級参謀が、同じ高さの椅子に座って溥儀に接見している場面が蝋人形で再現されている。この場面は溥儀が傀儡皇帝であることを示しているそうだ。皇帝は常に高い地位にいなければならず、同じ地位などとんでもない、ということであろう。この緝熙楼の他の部屋では溥儀の妻媛容がアヘンを吸っている姿も再現されている。
 中和門をくぐると、勤民楼だ。ここの1階は満州国の様子が写真で掲載されており、日本がいかに資源を搾取したかというデータを紹介している。反論は山ほどあるが、これはいずれまとめたい。2階は使節に接見したり、宴会が行われた部屋であった。
 また、両建物とは別に、従皇帝到公民展覧という建物で、溥儀が思想改造を受けて皇帝から一般市民に戻るまでの写真が掲載されている。

 
 国務院は満州国の最高行政機関である。場所は文化広場の隣で、道路を挟んで向こう側が偽満州国軍事部旧址である。ここから長春駅や関東軍司令部まで地下道が通じており、車も走ることが出来たというからすごい。地下道は現在でも防空壕として使用されているそうだ。1935年に着工し、翌36年に完成した国務院は、現在でも医学大学として使用されている。1階から3階が大学で4階が展示場だ。

正門から撮影した国務院
入口の円柱の上が閲兵台だ。
入口下から撮影した国務院
 
 入口でチケットを購入したところ、受付の老紳士が日本語でガイドしてくれた。おそらく70歳前後ではないだろうか。日本語教育を受けた世代なのだろう。歴史を感じる瞬間だ。1階から4階まではエレベーターで上がる。建築当時からある銅製で、日本の会社が製造したものだ。日本が製造したエレベーターで、戦前から残っていて、かつ現役で活躍しているものは他にあるのだろうか?ただ、上りにだけ使用して、下りるときは階段を使うように老ガイドさんに言われた。
 エレベーターを下りると、そこには満州国の写真が廊下に掲載されている。お約束のように、中国人の首を斬ろうとしている関東軍兵士の写真が有った。
 室内に入り、一つ部屋を通り抜けると、そこが満州国第二代総理大臣張景恵の執務室である。天井をご覧いただければ分かるが、豪華な内装である。ここには昭和19年発行のカラー世界地図が掲示されている。これも当時の地図だそうだ。それを見ると、日本・韓国・台湾・大連・南樺太が同じ赤で塗られていた。漢字は旧字体で、文字は右から左に書かれている。
 老ガイドさんはなかなかの商売上手で、最初はカラー世界地図のコピーが100元で、満州国時代の建物の写真セットが20元×2セットの40元だったが、「あなた歴史好き。全部で100元にしてあげるからこれで勉強しなさい。」などと言われ、断れずについ買ってしまった。

銅製エレベーター張景恵の執務室

 執務室から外に出ると、そこが溥儀が閲兵を行った閲兵台である。1937年3月に溥儀は2万人の兵士を閲兵し、それ以後半年に1回閲兵が行われた。

閲兵台
「末代皇帝溥儀閲兵台」と書かれています。
閲兵台から見下ろした写真。
道路を挟んだ右側が軍事部。

 閲兵台に僕も立ってみた。閲兵台の下には今では木が植えられているが、当時はそこに2万人もの兵士が整列し、溥儀を見上げていたはずだ。閲兵のとき、溥儀の胸に去来したものははたして何だったのだろう。悪化していく日中関係や世界情勢への不安か。それとも日本の指示を受けていることへの不満か。僕は、満州国の将来への希望であった、と信じたい。

(続く)
 

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください